中の家

提供: fukapedia
移動先: 案内検索

「中の家」(なかんち)は、渋沢栄一の生家であり、渋沢一族の中で本家筋にあたる。深谷市指定史跡および埼玉県指定旧跡に指定され、一般公開されている。


概要[編集]

住所
深谷市血洗島247番地1
開館時間
午前8:30~午後5:00
休館日
年末年始(12月29日~1月3日)
問い合わせ先
深谷市教育委員会 電話:048-572-9581


建物[編集]

建物は、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家のかたちをよくとどめている。

主屋
現在の主屋は明治28年に上棟されたもの。梁間5間、桁行9間の切妻造りの2階建て、西側に3間×3間の平屋部分等と持っている。屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家のかたちを残している。奥の十畳の部屋は、帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせたと伝えられている<ref>『渋沢栄一中の家パンフ』(深谷市教育委員会、2004)</ref> 。
渋沢栄一の生家(中の家)の主屋(深谷市血洗島)
副屋
現在の副屋は明治44年に上棟された。それ以前には藍玉の取引に使われていたのか、「お店」と呼ばれていた。また、市郎が近隣の子どもに漢学を教えるために学舎を住まわせていた時期もあるという。八基(やつもと)村農業協同組合事務所として使われていた時期もある<ref>『渋沢栄一中の家パンフ』(深谷市教育委員会、2004)</ref> 。
正門、東門

門はともに薬医門の造り。正門の扉はケヤクの一枚板で作られているが、これは市郎がこの地方の隊奥を探し求め、時間をかけ一枚ずつ集めたものという<ref>『渋沢栄一中の家パンフ』(深谷市教育委員会、2004)</ref> 。

渋沢栄一の生家(中の家)の正門(深谷市血洗島)
土蔵Ⅰ~Ⅳ
土蔵Ⅰは、内部に落とし板が使われ、米蔵等だったと考えられる。土蔵Ⅱは、大谷石を積んだ半地下室を持ち、藍玉の製造・貯蔵場として使用されていたと伝えられる<ref>『渋沢栄一中の家パンフ』(深谷市教育委員会、2004)</ref> 。

渋沢一族の家[編集]

渋沢一族は、血洗島の開拓者で、一族の祖先がこの地に土着したのは戦国時代末期の天正年間のこととされている<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一著、博字堂、2012)</ref>。その後、一族は分家して数々の家を興した。「中の家」もその1つで、この呼び方は各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。「中の家」を中心として、「遠西の家」「前の家」「遠前の家」「東の家」と呼び、さらに「東の家」の分家で古い方を「古新宅の家」、新しい方を「新屋敷の家」と呼んだ。これらをもって一族とした。

「中の家」の歴史[編集]

「中の家」は、代々農業を営んでいたが、苗字帯刀を許され、元助(のち市郎右衛門)のときには、養蚕・藍玉の製造販売。雑貨屋・質屋業などを兼ね、とくに藍玉の年商は一万両を超え、村内でも「東の家」に次ぐ富豪といわれるほどになった。 昭和26年には埼玉県の史跡として指定され、渋沢国際学園の学校施設となる時に埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」と指定替えがされた。 昭和58年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。 平成12年学校法人の解散に伴い、現在は深谷市に帰属している。 深谷市では、平成22年2月10日付けで主屋をはじめとする部分を、あらためて深谷市指定史跡へと指定し、平成22年度には副屋を中心に修復、復元工事を実施した<ref>『渋沢栄一中の家パンフ』(深谷市教育委員会、2004)</ref> 。


系図[編集]

Nakanchi.png

その他[編集]

  • 副屋の前には、渋沢家歴代の墓地がある。
  • 屋敷外の北東には、渋沢栄一の号「青淵」の由来となった池の跡に「青淵由来の碑」が建っている。
  • 南に200mほどのところに、血洗島の鎮守である諏訪神社がある。


脚注[編集]

<references/>