中瀬河岸

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中瀬河岸(なかぜかし)は、武蔵国榛沢郡中瀬(現、深谷市中瀬)にあった、利根川中流右岸の河岸である。ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る人や物資の中継基地として大いに栄えた。

中瀬河岸の位置[編集]

寛政2年(1790)の上武国境争論7の裁訴状に、中瀬村は「往古より川岸場にて安永3年より河岸場運上金弐両弐分づつ」上納し、前々から字下河原(古名小角(こすみ))に河岸場があったが、船着きが悪くなり、寛政2年二町ほど川上に引き上げられたという記事がある。

中瀬河岸の起源と繁栄、衰退[編集]

起源[編集]

中瀬河岸のおこりについては、慶長12年(1607)江戸城修理の際、中瀬から栗石を輸送したことに始まると伝えられている。
徳川家康は、天正年間から官営にかけて江戸城を改修した。大きな石材は伊豆・相模方面から海上を利用し運ばれたが、土圧や水圧を防ぐための石垣の裏側に積まれた栗石(裏込め石)は、利根川の中瀬付近のもので、慶長12年の天守閣と濠普請は伊豆の石材を用いず、中瀬あたりの石を使用したといわれる。当地の石は、浅間・白根系の石で良質なうえ、刻みやすいと重宝された。
こうした栗石輸送に端を発し河岸場が開け、後に廻米輸送および各種商品の河岸場として発展したと思われる。
当時、中瀬には石川藤兵衛(石藤)、河田十郎左衛門(河十)の2家が河岸問屋業を営んでいた。その後、石川家はその問屋株を石川武右衛門家に譲り、以後この両家が明治に入って廃業するまで続くことになる。河十の開業は正徳2年(1712)のことである。

繁栄[編集]

元禄期の江戸や京都、大坂の町人の経済的進出は目覚ましいものがあり、それにつれて江戸と上方、また地方への商品物資の流通が盛んになると、利根川筋でも新河岸や新問屋が次々と誕生した。新河岸が増えると必然的に旧河岸との軋轢が生じ、その問屋仲間に争論が生まれる。河十(河田家)に残る資料の中には現在の本庄市にあった一本木河岸が、これまで船積みしていた秩父荷物が減ってきたのは、近接の中瀬河岸など4河岸が、荷物を競りとっているためとし、幕府に訴え出たものが残っている。
しかし幕府側では、河岸の増加は年貢取り立ての新財源であるとし、厳しい河岸吟味を行っては運常金・役銀などを吸い上げていた。
安永3年(1774)には勘定奉行石谷備前守清昌によって再河岸吟味が行われた。再河岸吟味とは、利根川を上下する船荷を扱う河岸問屋に対して、その数量を査定し、それに応じた雲上金を上納させることである。
中瀬の河田十郎左衛門(河十)は石川武右衛門「永壱貫弐百五拾文」を納めている。しかし、問屋側はこの代償として幕府に荷物運輸の既得権を保証させた。
翌安永4年(1775)になると、上利根川筋の14河岸の問屋仲間が組合を組織し、その力で新河岸新問屋の停止を主張した。こうした激しい争論の中で中瀬河岸は、秩父地方の荷主を見方に営業を続けている。

中瀬河岸の特長[編集]

『新編武蔵風土記稿』(文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌)によると、中瀬付近は上流と下流の接点であり、他の河岸場にない3つの大きな特長があった。

  1. 乗客の乗り継ぎ場として、上流から小船で来た船客は中瀬で大船に乗り換える規定があった。また、そうした関係で陸路で中瀬まで来て、そこから船便に乗る客も多かった。
  2. 物資の積み替え所としての機能も備え、倉賀野で300俵、中瀬で500俵、下流で1000俵が標準と定められていた。
  3. 関所の役割も持っており、乗客の乗り換え時に手形の提示が渡船場とともに行われていた。

以上のような特色上、人客も扱ったことで、必然的に旅籠屋、風呂屋、飲食店ができ、関係する職業や石なども村に常駐していた。それらは次々に新店が出て、川端まで葦簾(あしすだれ)張りで営業を始めたようである。
これに影響を受けたのが深谷宿で、年々さびれていったために、宿場こぞって抗議して訴訟を起こした文書が残されている。

衰退[編集]

近世中期から後期にわたって繁栄を続けてきた中瀬河岸も、明治16年(1883)深谷駅開業の頃から衰退の一途をたどり、河田家も明治24年(1891)ついに廃業する。
その後、大水が出るたびに利根川の川筋も変化し、特に明治42年(1909)の大洪水で空前の大打撃を受け、直後から開始された内務省の河川改修によって中瀬の姿は一変した。

深次郎の中山道深谷宿の史跡めぐり[編集]

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関連項目[編集]