八幡神社(上野台)

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八幡神社は、深谷市上野台地域の総鎮守の神社。10月の例祭では、上柴町を含めた旧大字上野台の全域を3日にわたって渡御する神輿が盛大である。上野台地域とは、今の上野台、桜ケ丘、上柴町西4~7丁目、上柴町東6~7丁目、秋元町、緑ケ丘 などを含む。

所在地
埼玉県深谷市上野台3168

由緒と沿革

八幡さまの鎮座のいわれは、深谷上杉氏の家臣、岡谷清英(加賀守)が、戦国時代の天文19年(1550)に、深谷領の守護として、山城国(京府府)の石清水八幡宮を勧請したのに始まる。当初は茅場村(深谷市萱場)の清心寺の鎮守として祭られた。清心寺は「石流山八幡院清心寺」といい、「石流」とは「石清水」のことである。
八幡宮は江戸時代の宝永三年(1706)に上野台村の地頭・大久保氏によって再建された。正徳年中(1711~16)に至り、村域全体の宥和のため、大久保氏から社地が寄進されて現在の地に遷座され、以来、上野台村の鎮守として崇敬されるようになった。
神輿に御祭神を戴いて行列を組み、全村にわたって夜間まで渡御する三日間の例祭は、遷座の当初より行なわれていたと思われるが、現存の神輿は安永年間のものと伝えられる。
旧上野台地域とは、深谷市の桜ヶ丘、上柴町西4~7丁目、上柴町東6~7丁目、秋元町、緑ケ丘を含む地域。

祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと)。<第十五代応神天皇のこと>
旧社格
郷社

社殿と工作物

幟旗
「八幡大神」とあり、千家尊福の書。

祭礼

1月1日
歳旦祭(さいたんさい)
3月社日
祈念祭(きねんさい)社日祭。社日とは春分の日の前後の戊(つちのえ)の日のこと。
7月1日
道饗祭(どうきょうさい)
10月 例祭
例祭(れいさい)3日間

例祭は、古くは旧暦8月15日前後の3日間だったが、昭和のころは新暦10月15日前後、平成には10月中の吉い日を選んで3日間行なわれる。神輿は例祭初日に光厳寺前にある境外地内の神輿倉前から出発し、茶売街道を中心に往復30km以上の道のりがある。ほかに、屋台の曳きまわしや、獅子舞(ささら)、棒術(棒づかい)、道化、などの行事がある。獅子舞は深谷市の無形文化財に指定される。祭典の中日には八幡様の社殿で、浦安の舞・豊栄の舞が奉納される。この舞は、3月の祈年祭、11月の新嘗祭でも行われる。平成20年代は「体育の日」を最終日とする3日間であることが多い。

11月25日
新嘗祭(にいなめさい)
12月30日
大祓(おおはらえ)

境内神社・末社

天神社
 祭神 菅原道真

 元亀三年三月 領主秋元長朝(越中守) 上野台 上野山元誉寺境内に勧請す。天神御影は長朝の筆なり。明治二十八年 乞に応じ 秋元家へ預け置く。明冶四十年六月十一日埼玉県令を以て移転し、仝所字元天神 天神社、字台前 天神社、字鼠 天神社、字金燈龍 天神社を合祀す

地神社
 祭神 埴安姫命 創立詳ならず 字町裏より移転し 字地神祇 地神社を合祀す

社日祭には参詣多く、地神社のおふだも全戸に出る。

伊奈利神杜
 祭神 倉稲魂命 創立詳ならず 字大台より移転し 字鼠稲荷社二宇 字割山伊奈利社を合祀す
台天白神社
 祭神 別雷命 創立詳ならず 字鼠より移転す

祭神については羽生市大天白神社の祭神説明を流用した説明が従来存在しましたが、『八幡神社縁起』に「別雷命」とあるのが正しいものです。

古峯神社
 祭神 日本武命 創立詳ならず 字大台より移転す
浅間神社
 祭神 木花佐久耶姫命 創立詳ならず 字鼠より移転す
八坂神社
 祭神 健速須佐男命 創立詳ならず 字鼠より移転す
怡母神社
 祭神 少彦名命 創立詳ならず 字大台より移転す (いぼじんじゃ)
蚕影神社
 祭神 大巳貴命 創立詳ならず 字森下より移転す
手長神社
 祭神 天手長男命 創立詳ならず 字森下より移転し 字大台手長神杜を合祀す
白山神社
 祭神及創立詳ならず 字鼠より移転す
幡神社
 祭神及創立詳ならず 字鼠より移転す
雷電神社
 祭神 建御雷命 創立詳ならず 字大台より移転す
岡谷神社
 祭神 岡谷清英公

碑文

岡谷清英公碑文
(明治18年)編輯副長官兼東京大学教授従五位勲六等 重野安繹撰

君名清英、称加賀守、鎮守府将軍源経基十八代、加賀守香丹子也。香丹、属深谷上杉氏、築城武蔵国榛沢郡上舗免、居焉、称皿沼城。延徳三年(1491)、勧請伏見稲荷、為守護神、称北堀稲荷。又以諏訪社、為鎮守、後譲城長子清英、退老曲田城。天文四年(1535)、開山、光円禅師自明恵了、創建一寺于城内、号岡谷山皎心寺。六年八月十五日卒、法謚岡谷院、葬于皎心寺。清英、属上杉氏、屡有戦功、頗好文事。十五年四月二十日、関東管領上杉憲政及扇谷上杉朝定与北條氏康、戦于川越、大敗走、朝定戦死、上杉氏大衰。清英、補上杉憲賢・憲盛、深谷図恢復。十九年二月、清英、開山、僧洞誉玄仙、創建一寺、于榛沢郡萱場村、名石流山八幡院清心寺。建八幡社、及箱根権現社、祀之権現像。上杉謙信所贈此像、享禄中(1528~32)、後奈良帝所賜、長尾家、仏工春日彫刻也。又有、薩摩守平忠度墓。寿永之役、岡部忠澄、以獲忠度之功、得重賞、於是、建忠度墓、植名木桜、祈其冥。清英、至草創寺之時、囲之寺域吊慰其忠魂、此桜花蕋中生青葉、世人称忠度桜。二十年、氏康歿。深谷清英・秋元景朝等、防戦郤之。永禄二年(1559)謙信、蹂躙西上野、祓小名淵、飯野等、城勢如風雨、進至羽生口、清英与景朝等、率深谷成田兵五百余騎、押之、謙信旋兵。十一年四月二十五日、越相父和。元亀三年(1572)閏正月六日、謙信、贈書清英、属托坂東之事。天正元年(1573)四月十五日、憲盛与北條氏、政和、先是上杉氏与北條、軍戦不死、氏政、使弟氏邦贈誓詞、子憲盛、屡々使、清英及景朝・井草某、贈対詞、是謂深谷三宿老。又岡谷、秋元井草、上原、称四天王。十年、瀧川一益受織田信長命、為関東管領入厩橋城木部、倉賀野、和田、小畑、由良、長尾渋川等、抵厩橋納欸。六月十日、信長為明智光秀所弑報至、一益、大驚、将上京率兵、迫鉢形城主氏邦与氏憲等、相議、使清英及景朝等、激戦于金窪原久糸原等、不剰北條氏直聞之、率兵来援与、一益、戦大敗之。清英、後受戒幡随意上人、削髪、号清心。十二年十一月八日卒、法謚皎月院、葬清心寺。

深谷市指定文化財

獅子舞
上野台上柴文化財保存会によって維持されている。
金梨地高蒔絵定紋入鞍

参考資料

『八幡神社由緒』、『八幡神社縁起』(秋元興朝)、『大里郡神社誌』

外部リンク

八幡神社のページ