尾高惇忠

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尾高惇忠(おだか じゅんちゅう 文政13年(1830)~明治34年(1901))は、渋沢栄一に論語を教えたことで有名。渋沢栄一の10歳上の従兄弟で、後に官営富岡製糸場の初代工場長、第一国立銀行仙台支店支配人などをつとめた。父は尾高勝五郎、母はやへ(渋沢宗助の妹)。諱(いみな=生前の実名)は惇忠(じゅんちゅう)、通称・新五郎。号は藍香(らんこう)。弟に尾高長七郎尾高平九郎渋沢平九郎)、妹にのちに渋沢栄一の妻となる尾高千代がいる。


文政13年(1830年)武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に生まれた。
弘化4年(1847)から幕末まで自宅で尾高塾を開いて、近郷の子弟に学問を教えた。渋沢栄一は7歳から通い始め、師の惇忠は17歳であった。惇忠は、四書五経の他に、水戸学の尊皇攘夷思想を教え、後の栄一の人間形成に大きな影響を与えた。栄一は後に「今日の私があるのはひとえに藍香の教えのお陰である」と述べている。
惇忠の妹の千代が栄一の妻になっている。
娘の尾高ゆうは官営富岡製糸場の第1号の伝習工女。

略年譜[編集]

天保元年(1830) 1歳
7月27日 武蔵国榛沢郡下手計村(現在の深谷市下手計)に生まれる。
天保7年(1836) 7歳
川越藩の師範役、大川平兵衛について神道無念流の剣術を学ぶ。
天保12年(1841) 12歳
徳川斉昭、水戸城外千波ケ原で模擬戦的追鳥狩を行う。惇忠、父、尾高勝五郎と一緒に見学する。
弘化3年(1846) 17歳
この頃、渋沢栄一に論語その他を教える(渋沢栄一7歳)
安政5年(1858) 29歳
10月6日 渋沢栄一と一緒に長野方面へ製藍を販売するために出かける。『巡信記詩』
文久3年(1863) 34歳
10月 惇忠の弟、尾高長七郎の意見により、高崎城乗っ取り計画他に出ることを中止する。
元治元年(1864)
3月2日 尾高長七郎、戸田の渡しを過ぎた所で通行人を斬り殺してしまう。その罪により長七郎入牢。
5月 各地で天狗党の軍資金借用が目立つ。
6月5日 天狗党の件で、惇忠が岡部の陣屋に入牢。
7月22日 榛沢郡北阿賀野村の志士・桃井可堂死亡(62歳)
11月13日 天狗党千余名が中瀬・平塚の両河岸で利根川を渡り、本庄宿に至る。
明治元年(1868) 39歳
2月23日 尾高惇忠、渋沢喜作(誠一郎)ら上野彰義隊結成に参加。
4月19日 振武軍結成
5月18日 振武軍(422人)飯能に陣取る。
5月23日 飯能戦争で振武軍敗れ、四カ寺208戸全焼。惇忠の弟、渋沢平九郎(渋沢栄一の養子)自刃する(22歳)。
釈放されていた尾高長七郎もこの年没す(32歳)。
明治2年(1869) 40歳
12月 備前渠仁手取水口廃止。新渠開鑿事件発生。
明治3年(1870) 41歳
9月24日 備前渠新渠開鑿の件終了。事件が解決するとともに聴訴掛から勧農局の富岡製糸場長として栄転する。
10月13日 尾高一行、富岡へ向かう(開設決定)。
明治4年(1871) 42歳
1月15日 ブリューナ、機械購入のため帰仏。
1月22日 尾高、富岡に来て製糸場予定地を整地する(瓦・煉瓦石・礎石・石炭の手続き終了)
3月13日 尾高、富岡に来て工事に着手し、近郷を巡視。
7月24日 大蔵省勧業司製糸場を管す。
明治5年(1872) 43歳
2月 ブリューナ帰朝。
2月12日 工女募集の議案を決す。
6月4日 大蔵省、各府県に論告書を頒布。北陸道10件に工女募集心得を頒布。
7月 建築、一切完了する。
8月 「秋蚕(あきご)」の名が初めて生まれる。尾高は、この秋蚕こそ日本蚕糸業発展の一大革命であると信じ、郷人に勧めるとともに自らも比較検討を進めていた。
10月4日 富岡製糸場操業開始。初代工場長としてその経営にあたることになる。
明治6年(1873) 44歳
4月5日 工女増員のため、寄宿舎、病室等を建て増し。
6月24日 英照皇太后、昭憲皇太后の両宮が行啓。
明治8年(1875) 46歳
9月 製糸場を製糸所に改称。
11月 尾高はすでに辞職を決意しながら、自らも秋蚕の奨励に尽くしていたが、この年、在官の身でありながら本省と見解を異にしたことを理由に、官営富岡模範製糸所長の職を辞することになった。
明治10年(1877) 48歳
12月 渋沢栄一に依頼されて第一国立銀行に入り、岩手県盛岡支店の支配人として同地に勤務すること9年に及ぶ。

明治18年(1885) 56歳

北上川の舟運を近代化するための「北上回漕会社」の設立にこぎつける。
明治20年(1887) 58歳
5月 第一国立銀行仙台支店の支配人に転じる。
明治22年(1889) 60歳
7月 尾高は有志と議して宮城貯蔵蓄殖林組合を設立する。
9月 渋沢栄一、日本煉瓦製造株式会社を創設し、上敷免村(深谷市)工場竣工。
明治25年(1892) 63歳
加藤彦七郎と共同研究で藍靛製造法の特許を得る。
6月 第一国立銀行を辞して、自適の生活に入る。
明治34年(1901) 72歳
1月2日 深川区福住町九番地で没する。遺体は郷里の下手計村に送られ葬られる。「藍香院惇徳格知居士」。
渋沢栄一は尾高惇忠の死を悲しみ、自ら墓碑銘を撰書している。碑文の最後の
「学あり、行いあり、ああ君子の器。われまた誰をか頼らん。何んぞわれを捨てて逝けるや」
という送別の言葉を書いた。

※『郷土の先人・尾高惇忠』(荻野勝正著、平成7年)を、著者の許諾を得て転載した(一部改め)。

生家[編集]

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この生家は、江戸時代後期に惇忠の祖父が建てたものといわれ、惇忠と渋沢栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝えられる部屋が2階にある。ただし未公開(外観のみ見学できる)。

参考文献[編集]

  • 郷土の先人・尾高惇忠』(荻野勝正著、平成7年)
  • 『尾高惇忠』(荻野勝正著、さきたま出版会)
  • 『赤煉瓦物語』(赤煉瓦物語をつくる会・あさを社)
  • 『富岡製糸所史』(片倉製糸(株))
  • 『埼玉の女たち』(韮塚一三郎著・さきたま出版)
  • 『藍香翁』(らんこうおう)(塚原蓼洲著、明治42年)