尾高長七郎

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尾高長七郎(1836~1868)は、幕末の人で、尾高惇忠(新五郎)の次弟。諱(いみな)は弘忠。東寧もしくは省斎と号した。


生涯[編集]

生い立ち[編集]

尾高長七郎は、天保7年(1838)、武蔵国榛沢郡手計村(現在の埼玉県深谷市手計)に生まれる。

青年時代[編集]

家業に専念しなければならない兄・惇忠に代わり、江戸に遊学、剣を伊庭軍兵衛に、学を海保漁村に授けられる。長州・水戸・宇都宮など各藩の志士多数と交わる。
渋沢栄一は以下のように語っている。

「自分が読書の至難を受けた尾高惇忠の弟に、長七郎という人があって、自分よりは2つ年上で、大兵(だいひょう)のうえに腕力があり、かつまた撃剣においては非凡の妙を得た人であったから、撃剣にするというので、それ以前から江戸へ出ていたが、これも折々江戸から友人の書生を連れてきて、しきりに慷慨憂世(世の成りゆきを憂えて、いきどおり、嘆くこと)の談論をするというありさまであった。(省略)そのころ、長七郎は下谷練塀小路の海保という儒者の塾にいて、そうして剣道遣いのところへ通っていたから、それを頼りに、どうか自分も江戸へ出たいと(父に)いった<ref>『雨夜譚 余聞』(渋沢栄一談、小学館、1998)</ref>。」

文久2年(1862)正月、水戸藩士らにより老中安藤信正が江戸城坂下門外に襲われると、長七郎もその一味として幕吏に追われる身となる。長七郎はそのとき郷里にいて江戸へ出るといって出立したが、田舎までも逮捕の沙汰があるということを聞き込んだ渋沢栄一(23歳)が熊谷宿まで追いかけて引き留め、信州を経て京都に落ち延びさせた。

文久3年(1863)10月京都から帰郷し、高崎城乗っ取り計画を企て、挙兵直前であった渋沢栄一や兄・惇忠を説き、その不可なることを訴え、これを断念させた。

「10月25、6日ごろになって尾高長七郎が京都から帰ってきた。そこでそれまでの成りゆきを詳細に話して、今後ことを挙げる手続き上のことも相談して、かたがた京都の形勢を尋ねてみたところが、長七郎の考えはあmるで反対で、種々に異論があった。今日からみると、そのときの長七郎の意見が適当であって、自分の決心はすこぶるむぼうであった。じつに長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってもよい<ref>『雨夜譚 余聞』(渋沢栄一談、小学館、1998)</ref>。」

元治元年(1864)正月、中村三平(海保塾生)及び従兄弟の福田滋助とともに江戸へ向かう途中、戸田ヶ原(現埼玉県戸田市)において誤って通行人を殺傷し、伝馬町の獄に繋がれる身となる。以後入牢は5年の長きにわたり、明治元年(1868)4月9日、江戸開城の直前、赦されて出獄する。

死去[編集]

同年11月18日に、郷里で病を養う中、亡くなる。
フランスから帰国した栄一は、長七郎の死を知ると、不幸短命に終わったその生涯を悼み、みずから長七郎の墓碑を建立して、その恩に酬いた。


出典[編集]

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