平忠度

提供: fukapedia
移動先: 案内検索

平忠度(たいらのただのり)は、平安時代後期の武士・歌人。天養元年(1144年)~元暦元年(1184)。

生涯[編集]

天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。母は仙洞御所の女房。最高の官位は正四位下・薩摩守。
治承4年(1180)源頼朝討伐の富士川の戦、翌年の州俣川の戦に出陣し副将軍として活躍、寿永2年(1183)源義仲討伐の倶利伽羅(くりから)峠の戦いで戦い敗れた。翌年一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただずみ)と戦い討死した。
藤原俊成に師事し和歌をよくし、『千載和歌集』『新勅撰和歌集』『玉葉和歌集』などに作品がのっている。
『千載和歌集』の撰者・藤原俊成は朝敵となった平忠度の名をはばかり「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。

供養塔[編集]

清心寺境内に、岡部六弥太忠澄が平忠度の菩提を弔うために建てたといわれる供養塔がある。

Tairanotadanori.jpg

『平家物語』[編集]

薩摩守の最期 寿永3年(1184年)[編集]

薩摩守忠度は、一の谷西の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧に、黒き馬の太うたくましきに、鋳懸地の鞍置き乗り給へり。兵百騎ばかりが中にうち囲まれて、いと騒がず、ひかへひかへ落ち給ふ所に、武蔵国の住人、岡辺六野太忠純、よい敵と目をかけ、鞭鐙を合はせておつかけ奉り、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも、敵に後ろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と言葉をかけければ、薩摩守「これは味方ぞ」とてふり仰ぎ給へる内甲を見入れたれば、金黒なり。
「あつぱれ味方に、かね付けたる人はなきものを。いかさまこれは平家の公達にておはしますにこそ」と思ひ、おしならべてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵ども、みな国々の駆り武者なりければ、一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ちゆきける。
薩摩守は、熊野育ちの早業大力にておはしければ、六野太を掴うで、「につくい奴が、味方ぞと言はば言はせよかし」とて、馬の上にて二刀、落ち付く所で一刀三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なりければ、とほらず、一刀は内甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけり。取つておさへて、首をかかんとし給ふ所に、六野太が童、遅ればせに馳せ来たり、急ぎ馬より飛んで降り、打ち刀を抜き、薩摩守の右のかひなを、肘のもとよりふつと打ち落とす。
薩摩守、今はかうとや思はれけん、「そこのき候へ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで、弓長ばかりぞ投げのけられたる。その後西にむかひ、高声に十念唱へ給ひて、「光明遍照十方世界、、念仏衆生摂取不捨」と宣ひも果てねば、六野太後ろより寄つて、薩摩守の首を討つ。
六野太よき大将軍討ち奉たりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結びつけられたる文を取り見れば、「旅宿花」といふ題にて、歌をぞ一首詠ぜられたる。


  ゆき暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし


忠度と書き付けられたりけるによつてこそ、薩摩守とは知りてんげれ。六野太なのめならず喜び、首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げて、「この日頃平家の味方に聞こえさせ給へる薩摩守殿をば、武蔵国の住人、猪俣党に岡辺六野太忠純が討ち奉たるぞや」と、名乗りければ、敵も味方もこれを聞いて、「あないとほし。武芸にも歌道にも優れて、よき大将軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖をぞ濡らしける。


その他[編集]

忠度塚[編集]

兵庫県明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」がある。
神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚と胴塚がある(神戸市認定地域文化財)。

唱歌「青葉の笛」[編集]

唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵、明治39年)の2番では、藤原俊成に歌を託した平忠度のことが歌われている。

  一の谷の 軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
  暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛

  更くる夜半(よわ)に  門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ
  今わの際まで 持ちし箙(えびら)に
  残れるは「花や 今宵」の歌

外部リンク[編集]