庁鼻和城

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庁鼻和城(こばなわじょう)は、深谷市国済寺にあった平城(ひらじろ)<ref>日本の城郭を地形によって分類すると、(イ)平城、(ロ)平山城、(ハ)山城(丘城、平城式山城、繞郭式山城)の3つに分けることが出来る。深谷城はこの中の平城であって平地に築造されたものであった。</ref>で、深谷上杉氏の祖である庁鼻和上杉氏の居城である。

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▲庁鼻和城跡推定図(埼玉県深谷市の城址(余湖くんのホームページ)より転載

庁鼻和城は、庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)の祖上杉憲英(うえすぎのりふさ)が武蔵国幡羅郡庁鼻和(こばなわ)に構えた館である。上杉憲英が庁鼻和に住んだ時期は、正確にはわからないが、ほぼ1370年代の頃と推定されている。ここに城を築いた理由としては、第一に戦略的に新田氏残党の動向を常に監視し、不穏な動きがあれば萌芽のうちに鎮圧する必要があった。第二に、この地が上野新田庄付近から、鎌倉に通ずる交通上の要衝であった点などが考えられる<ref>『深谷上杉氏資料集』(p37)</ref>。

庁鼻和城跡[編集]

今でも国済寺の寺域には、その当時の館の外郭とおぼしき土手(壘(るい))が残っている。昭和12年調査で判然としている土手は、北方外郭の一線で、その長さ東西一直線に93間2尺、高さ西端部7尺、東端部5尺5寸、郭内は土地一面に高く、土手は西端部の高さわずかに4尺、東端部3尺である。
推測する館址は、この93間2尺を一辺とする大体正方形をなしていたらしく思われる。そして土手上には目通り5尺乃至6尺廻りの老松が点在して聳えている。寺裏の竹林中には庭園の跡らしい築山や泉石の遺蹟もある<ref>『深谷市史』(p316)</ref>。

上杉憲英(うえすぎのりふさ)、憲光(のりみつ)、憲信の3代が庁鼻和城(こばなわじょう)を館としていたことから、「庁鼻和上杉氏」と呼ばれる。
これに対して、その後、房憲(ふさのり)、憲清(のりきよ)、憲賢(のりかた)、憲盛(のりもり)、氏憲(うじのり)の5代は深谷城に住んだので、総称して「深谷上杉氏」と呼ばれる。
深谷城に移ったあと庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺として国済寺が建立された。

脚注・出典[編集]

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