日本煉瓦製造

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日本煉瓦製造株式会社(にほんれんがせいぞう)は、明治21年(1888年)に現在の深谷市上敷免(じょうしきめん)において操業を開始し、平成18年(2006年)までの120年間にわたり存続したレンガ製造会社。<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>ここで焼成された煉瓦は、東京駅をはじめとする建築物に使用され、日本の近代化に大きな役割を果たした。

住所[編集]

深谷市上敷免28-10、11

  • ご注意
** JR高崎線深谷駅より4km(車で約10分)
** 施設は常時公開していません。ご注意ください。

歴史[編集]

明治政府は銀座周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、明治19年に臨時建築局を設置した。建物群は西洋風のレンガ造りとするため多量のレンガが必要となり、政府は実業界の重鎮渋沢栄一に大量生産が可能がレンガ工場の設立を要請した。これを受けて、渋沢は、工場建設地として実家近くの上敷免村を推薦した。これは、従来から瓦生産が盛んで、良質な粘土が採れること、また小山川から利根川に下り、江戸川を経て隅田川を通り東京方面へ舟運が見込めたためである。

明治20年(1887)10月
渋沢栄一他4名の連名で、「会社設立願」を東京府庁へ、「煉瓦製造所設立願」を埼玉県庁へ提出、認可される<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>。
明治19年(1886)2月 臨時建築局設置(井上馨総裁)

建築家ヴィルへルム・べックマン(1832~1902)により高品質な煉瓦製造の必要性が説かれる。ナスチェンテス・ティーゼ(煉瓦製造技師)とともに工場用地として上敷免村が最適であるとの結論に達する。小山川沿岸5万坪。

明治21年(1888)
事務所の建設に着工。窯は、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンが考案した最新式「ホフマン式輪窯」の図面を同一から取り寄せ、建設を始める。また、蒸気汽窯・機械・素地製造器などをドイツから輸入。同年9月に1号窯の火入れが行われる。10月4日には臨時建築局よりレンガ22万本の注文を受ける<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>。
明治22年(1889)
2号窯と3号窯が完成し、操業開始<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>。
明治28年(1895)6月
専用鉄道竣工(舟運による輸送が不振のため)
明治35年(1902)
ホフマン輪窯4坐 年間3000万個生産

諸井恒平著『煉瓦要説』より[編集]

東京市付近の如き河海に接近し低卑湿潤なる地方の土質は植物性有機物を含有すること多く、斯くの如き原土を以て製作せる煉瓦は焼成の際有機物を燃燼して数多の空隙を生ぜしめ、為に汲水量を多大にし耐抗力を薄弱ならしむ。これに反して上敷免地方の如きは海岸を距てること頗る遠く、碓氷の峻嶺に接近して土地甚だ乾燥なり。随て有機物の如き粗悪の分子を含むことなく、焼成し得たる煉瓦はその質堅緻にして汲水量を減じ耐抗力に富む等殆ど善良煉瓦の特質を十分に具備せり。嘗て府下淀橋浄水工場に於て当社製品と他の製品との簡易なる比較試験を施行し、「アルコール、ランプ」の火力に依りて無際限にこれを燃焼したるに、他の製品は漸次実質を焼亡して遂に軽石の如くなりしに反し、当社製品は却て益々焼け固まり、恰も鋼鉄の如くなれりとて当局官吏の親しく明言せられりことあり、以てその土質成分に非常の差異あることを証するに足るべし。

文化財[編集]

日本煉瓦製造株式会社は、平成18年(2006年)6月30日をもって、約120年にわたる操業を停止したが、国の重要文化財である当時の事務所や煉瓦製造窯等は深谷市に寄贈され、現在に往時の姿を伝えている。また、創業時の文書約750点余は現在、埼玉県立文書館に深谷市より寄託されている。

ホフマン輪窯(国重要文化財)[編集]

ホフマン輪窯(わがま)は、ドイツの技術者フリードリッヒ・ホフマンが1858年に特許を得たといわれる、レンガを大量に焼くための窯である。現存するホフマン輪窯6号窯は、明治40年(1907年)に完成し、運転を開始した窯で、月間約65万個のレンガが生産された。窯全体は長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mで、日本に現存するホフマン輪窯としては最大規模である。窯の中は18の部屋に分かれ、各部屋の大きさは長さ6m、幅4m、高さ2.6m(写真は深谷市教育委員会)。<ref>「深谷の煉瓦物語」(深谷市教育委員会発行)</ref>

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旧事務所(国重要文化財)[編集]

明治21年(1888年)、ドイツ人のレンガ製造技師ナスチェンテス・チーゼが設計し、建設されたと伝わっている。チーゼが令嬢のクララと暮らしていた事務所兼住宅。工場内では「異人館」または「教師館」と呼ばれていた。寄せ棟瓦葺き下見板張りの洋風建築で、間口約27m、奥行き約16mで、裏側に幅3mのベランダが接し、その左端が便所となっている。天井、壁は漆喰、床は板張り。<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>

旧変電室(国重要文化財)[編集]

明治39年(1906年)に高崎水力電気株式会社(当時)と契約を結び、電灯線を引いたときに建設された建物。深谷市で最初に電灯線が引かれたのは、日本煉瓦製造株式会社であったようである(写真は深谷市教育委員会)。<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>

Rengaseizou hendenshitu.jpg

備前渠鉄橋(国重要文化財)[編集]

明治28年(1895年)、それまでの小山川利根川を利用した舟運に変わるレンガ輸送手段として、煉瓦工場と深谷駅間を結ぶ専用線(鉄道)が敷かれた。備前渠鉄橋(びぜんきょうてっきょう)は、このとき備前渠(用水路)に架けられた鉄橋である。現在は、深谷市の遊歩道の一部となっている。深谷市所有。<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>

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日本煉瓦製造株式会社のレンガを用いた主な建築物[編集]

日本煉瓦製造株式会社の製造したレンガを使用した主な建築物には、以下のものがある。

  • 東京駅丸の内側駅舎(東京都)<重要文化財>
    • 明治41年着工、大正3年完成。辰野金吾(たつのきんご)設計による国内最大級のレンガ建築。深谷の煉瓦か833万個使われている。(重要文化財)<ref>「深谷の煉瓦物語」(深谷市教育委員会発行)</ref>
  • 万世橋高架橋(東京都)
  • 法務省(旧司法省)旧本館(東京都)<重要文化財>
    • 明治21年着工、明治28年完成。関東大震災でもほとんど被害をこうむらなかった。昭和と平成に大改修が行われ、建設時の姿が復元された。<ref>「深谷の煉瓦物語」(深谷市教育委員会発行)</ref>
  • 日本銀行旧館(東京都)<重要文化財>
    • 明治23から29年にかけてたてられた。一見石造建築のように見えるが、じつはレンガを使って建設され、表面に石材が貼ってある。辰野金吾の初期作品中の代表作。
  • 迎賓館|赤坂離宮(現在の赤坂迎賓館、東京都)<国宝>
    • 現在の迎賓館の建物は、明治42年(1909年)に東宮御所として明治建築界全体が半世紀を費やして築き上げた西洋様式建築の大作。
  • 旧信越本線碓氷(うすい)峠第三橋梁(群馬県安中市)<重要文化財>
    • 明治24年着工、26年完成。横川・軽井沢間11.2kmあまりの区間に26ものトンネルと18の橋を必要とした鉄道工事で、ほとんどがレンガがで造られ、群馬県始まって以来の大工事となった。<ref>「深谷の煉瓦物語」(深谷市教育委員会発行)</ref>


レンガが使われている深谷の建造物[編集]

関連人物[編集]

  • 初代工場長
  • 北川千代
    • 父は北川俊。日本煉瓦工場内の社宅で生まれた。


外部リンク[編集]

幻の煉瓦建築を見にいく あるいは「銀座」の誕生

埼玉県立文書館「渋沢栄一と埼玉の近代 -創業期の日本煉瓦製造株式会社-」展

脚注[編集]

<references/>