深谷ねぎ

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深谷ねぎは、埼玉県深谷市周辺で作られている千住ねぎ(根深ねぎ)の総称である。深谷ねぎは、春ねぎ、夏ねぎ、秋冬ねぎと1年中出回っているが、中でも深谷ねぎが本領を発揮するのは11月~3月までにとれる秋冬ねぎで、白根の部分がやわらかで、鍋物や焼きねぎなどに欠かせない。

深谷ネギ(新戒地区)

産地[編集]

深谷名産として地域を代表する深谷ねぎであるが、深谷ねぎが始まった明治以降の100年でその産地は大きく変わり、現在ではかなりの多様性を持つようになっている。現在では、深谷市産ばかりでなく、妻沼、本庄、上里で高品質なねぎが作られ、「深谷ねぎ」として出荷されている<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>。 特に利根川右岸に広がる妻沼低地は肥沃な沖積地<ref>流水の堆積作用によって川筋に生じた平野(『広辞苑』)</ref>。で耕土が深く、加えて冬の日照期間が長いためにじっくり生長するなど、地質・地形・気候面でねぎ栽培に適している<ref>『旬がまるごと 1月号 特集ねぎ』(ポプラ社 2008)</ref>。

歴史[編集]

明治時代[編集]

深谷ねぎの生産は、明治初期に妻沼低地の一角豊里地区で始まった。
言い伝えでは大塚の針谷藤太郎が千葉県から導入して自家用につくったのが深谷ねぎの最初だといわれる。
その後、明治末期には最大の生産量になった新会(新戒)のほか八基中瀬大寄など深谷ねぎの産地になっていった。当時の生産は新会でさえ米、大麦、養蚕を主とする全価額の7%に過ぎない。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

大正時代[編集]

大正時代には「深谷葱」の名が生まれた。
大正時代にねぎの相場が下がったことがあり、当時の八基村の指導者渋沢治太郎が相談に来たので、乾物屋永徳屋本店の安部彦平(後の初代深谷市長)が取り引き先の信州、北陸、北海道、東北に深谷駅からねぎを出荷した際に、駅名をとって「深谷葱」の商標をつけたのが最初といわれる。
それまで近辺にのみ出荷されていた深谷ねぎが東京デビューしたのは大正5年(1916)、大塚の松村有七によって出荷されている。その3年後には血洗島の林文一が2トントラックにむきねぎを積んで直接東京へ出荷したのが、当時画期的な出来事として話題になったといわれる。
大正の終わりには個人より団体で出荷するメリットが見出され、豊里に相次いで組合が誕生。 大正13年(1824)、河田義雄は深谷の叶屋自動車と提携を果した。東京を主な消費地として発展した深谷ねぎの流通は当初「土つき六貫目俵」で輸送され、途中の板橋志村坂では「立ちん棒」と呼ばれる人々が重い荷を押して運ばれたという。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

昭和時代[編集]

昭和4年(1919)に起こった世界恐慌による海外市場喪失で養蚕業が大きな 打撃を受けたこともあり、ねぎ栽培は拡大していく。中心は明治末期の土壌学の権威大工原銀次郎博士が「全国三大肥沃地」 に選び、地元の人も「日本一肥沃な土地」と呼ぶ、有機質沃土が3メートルにわたって重なる「飯玉耕地」(新戒の小字)をはじめとする市北部であった。 ちなみに歌人吉野秀雄が以下の短歌を詠んでいる(昭和11年作 歌集『早梅集』収録)。
昭和25年から昭和30年頃の深谷ねぎの皮むき風景(小林徳太郎氏撮影 押川航武氏提供)
▲昭和25年から昭和30年頃の深谷ねぎの皮むき風景(小林徳太郎氏撮影 押川航武氏提供)

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「ふかや葱 深谷の駅に積まれゐて さきたまあがた  冬に入りけり」

歌人が、積まれたねぎで冬を感じた深谷駅がじつは「深谷ねぎ」命名がきっかけらしい。

昭和に入ってからも、豊里は農業先進地区として周辺ねぎ生産界を牽引した。戦後の消費拡大とともに市北部豊里、明戸地区のねぎ作付面積は増加した。昭和43年(1968)の生産農業所得では、豊里村(当時)の平均所得は埼玉県全体の2倍以上であった。
その後、交通手段の発達とともに流通も変化した。おもな消費地である京浜地区だけでなく「山出し」と呼ばれる北海道、東北ルートも「野菜移出商人」によって拓かれた。
かつては土がやわらかく寄せにくいため、ねぎに不向きとされた南部の藤沢地区櫛引でのねぎ導入は、昭和50年(1980)頃にインスタントラーメンの乾燥野菜用として始まったといわれる。この頃には技術的な向上もあり、また土にとってねぎは新しい作物だったため、南部でも高品質のねぎが生産されるようになり状況は変わっている。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

平成時代[編集]

生産現場の機械化が進み、流通では配送が交通網の進化やシステム化で格段に高度化している。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

流通[編集]

深谷ねぎ地域には多くの市場があり、それぞれが独自の流通ルートを持って発展してきた。出荷組合、農協の一元出荷、大里一元出荷など出荷方法も変遷してきた。ユニークな存在としては昭和26年(1951)に60戸の農家でスタートし、全盛期の昭和40年代には年間4億円の売上を記録、昭和の終わりに解散した妻沼男沼地区の「愛農会」もある。
1970年代にスーパーをはじめとする大型量販店の登場以降は、さらに流通のかたちは変わってきた。メーカーとの直接契約もその1つである。 バブル崩壊後の平成期からは資本の集中が進んでいるが、一方で生産者や関係団体による産直店も増えている。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

農具[編集]

高島飯塚房雄は昭和37(1962)に、培土機としての耕運機「豆トラ」を開発した。最初は青葉をなぎ倒してしまうので相手にされなかったが、やがて倒すのは出荷時に取ってしまう葉だ とわかり2年後には爆発的に普及したという。昭和41(1966)には土寄せ機もデビューさせている。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>

深谷ねぎの作り方(秋冬ねぎの場合)[編集]

3月 
種まき

Negi nae.jpg
ねぎの苗

5~6月 
定植

Negi teishoku.jpg

8月 
元寄せ(夏頃から根元に少しずつ土を盛り上げていく)

Negi tsutiyose.jpg

9~10月 
土寄せ(根元から高さ30~40cmまで土を盛り上げることで新しく出てきた葉は緑にならず白いままとなる)
11月~3月 
収穫


イベント・キャラクター[編集]

  • 平成10年(1998)、深谷市のPR事業として島津亜矢が歌った『おねぎのマーチ』が登場。踊りが運動会などで踊られているほか、深谷駅の発車メロディーにもなっている。
  • 平成20年(2008)、ご当地映画として製作されたたかひろや監督『傘』では、ヒロインが、ねぎ農家の娘として登場した。
  • 平成22年(2010)、深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が誕生した。ねぎが頭に生えている。
  • 平成22年(2010)、「全国ねぎサミット」が深谷ビッグタートルで開催された。
  • 「ゆめ☆たまご」のキャラクター「深谷ねぎ之進(ふかやねぎのしん)」は、ねぎを頭に載せている。<ref>『深谷ねぎの現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)</ref>
  • 平成24年11月14日、シンガーソングライターミルク082のCD『ねぎ~サンバ 』が発売になる。カップリング曲は『ゴーゴーふっかちゃん』。
  • 平成25年1月27日(日)市民の有志が企画・運営し『深谷ねぎまつり』が開催される。

脚注・出典[編集]

<references/>

リンク[編集]

深谷ねぎまつり


「深谷ねぎ」の現象学』(小林真、知楽交通舎・蘭塾、2011)[編集]

PDFのダウンロードは下記から。 ファイル:Phenomenology.pdf