渋沢一族

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深谷市血洗島の地は、渋沢栄一生誕の地として全国的にも有名である。この血洗島の地に、戦国時代末期の天正年間(1573~1592)に土着したといわれる渋沢一族は、それぞれの家ごとに屋号を有している。
栄一の生家は「中の家」(なかんち)と呼ばれ、本家筋とされる。

渋沢栄一の生家(中の家)の正門(深谷市血洗島)

この「中の家」を中心に、それぞれの位置関係により、

がある。

「東の家」の分家で古い方を「古新宅の家」(ふるしんたくんち)、新しい方を「新屋敷の家」と呼び、これらをもって一族としている。

一族勃興の気運は、「前の家」から出て新たに「東の家」を興した初代宗助(長登)に始まる。両親の貧苦困窮する姿を見て発奮、13歳の時に自ら進んで上州尾島宿(現太田市)の呉服商に奉公に出た。郷里に帰ってのちは、最初飴菓子の行商などをして次第に財を貯えたという。
2代宗助(政徳)、三代宗助(徳厚)と続き、養蚕や藍玉の製造・販売に活路を見出し、やがて巨万の富を築くことになる。
栄一が育つころには、血洗島で一番の物持ちが「東の家」、次が「中の家」と呼ばれるまでになった。また、初代宗助の次男龍輔(号仁山)(渋沢仁山)は、分家して「古新宅」の祖となり、自邸内に私塾「王長室」を営み、一族の間に学問・芸術の世界に寄せる深い愛情と理解を根づかせる大きな要因となった<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一、博字堂、2012)p97</ref>。

出典[編集]

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