渋沢仁山

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渋沢仁山(しぶさわじんざん 安永7年(1778)~文政13年(1830))は、渋沢一族の一人。江戸後期の儒学者。漢学者。尾高惇忠渋沢喜作渋沢栄一桃井可堂らと『論語』との関係を考える場合、その精神的系譜の源流を占める人物である。諱(いみな)を阿鼎(あてい)、字(あざな)を龍甫(りゅうほ)、通称を龍輔(りゅうすけ)といい、仁山(じんざん)は雅号である。

生い立ち[編集]

渋沢仁山は、安永7年(1778)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に、父・渋沢宗安、母・茂与の次男として生まれる。家は「東の家」(ひがしんち)と呼ばれる。幼少より学問の道を志す。 長じて後は、「東の家」から分地し「古新宅の家」というて一家を構え、自邸内「王長室」(おうちょうしつ)と名付けた学塾を営み、『論語』を中心とそする儒教の教えを講じた。

「長ずるに及んで、奮然自ら勤め、六経<ref>『六経』とは、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を指す。</ref>諸伝を精究す」。「好んで文章を著し、詩を作り、自ら娯(たの)しむ。又書を善くし、緒余は俳歌に及ぶ。実に多能の士なり」。(儒者・広川鈴木維親の撰文)<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一、博字堂、2012)p100</ref>。

門下[編集]

脚注・出典[編集]

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