渋沢喜作

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渋沢喜作(渋沢成一郎 天保9年(1838)~大正元年(1912))は、渋沢一族の一人。幕末の尊皇の志士。高崎城乗っ取り計画頓挫後は、幕臣となり、鳥羽・伏見の戦い後に彰義隊を結成し、頭取となる。維新後は実業家として活躍。渋沢栄一の2歳年上の従兄弟。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

天保9年(1838)6月10日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の深谷市血洗島)に、父・長兵衛(のち文平と改める)、母・要子の次男として生まれる。長兄が早逝したため、長男として育てられる。生家は「新屋敷の家」(しんやしきんち)と呼ばれ、父・長兵衛が「東の家」(ひがしんち)から分家した家である。

高崎城乗っ取りと横浜の異人館焼き討ち計画[編集]

文久3年(1863)、喜作は尾高惇忠渋沢栄一らとともに倒幕計画が練る。冬至(旧暦の11月12日)の日を期して、高崎城乗っ取りと横浜の異人館を焼き討ちするというものである。しかし、京都から戻ったばかりの惇忠の弟尾高長七郎の必死の説得により、計画は中止となる。

一橋家の家臣に[編集]

喜作は、栄一と共に郷里を出奔、江戸を経て京都に平岡円四郎を頼り、元治元年(1864)2月9日、喜作と栄一の両人は一橋家に仕えることとなる。

彰義隊の頭取に[編集]

慶応4年(1868)の戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦い(幕府軍と薩摩・長州軍との戦い)において軍目付(いくさめつけ、合戦の記録を作成し、軍功の判定にあたる役目)として出陣するが、幕府軍総崩れとなり大坂を脱す。江戸に戻った喜作は、官軍に対抗するため彰義隊を結成し、その頭取となる。従兄弟の尾高惇忠尾高平九郎兄弟もこれに加わっている。
しかし、やがて彰義隊は、徳川慶喜の身の安全を第一とする喜作ら一派と、あくまでも徹底抗戦を主張する副頭取の天野八郎一派との間に対立を見ることとなり、4月11日に江戸城が無血開城し、徳川慶喜の水戸退隠を見届けた喜作ら一派は彰義隊を脱退する。<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一 、博字堂、2012)</ref>。
慶応4年(1868)5月15日、上野寛永寺一帯に立てこもっていた彰義隊は、大村益次郎が指揮する政府軍の前にわずか半日の戦闘で壊滅する。

振武軍[編集]

彰義隊を脱退した渋沢喜作らは青梅街道の宿場町である田無(たなし)に後退し、ここであらたに「振武軍」(しんぶぐん)を結成する。彰義隊の敗北を聞いた振武軍は田無から箱根ヶ崎(現、東京都西多摩郡瑞穂町)を経て飯能(現、埼玉県飯能市)に移動、能仁寺を本営と定め数百の兵を布陣した。
5月23日早朝から戦闘が始まる(飯能戦争)も、振武軍は午前中に壊滅し、喜作は秩父谷(現、埼玉県秩父市)へ、惇忠は伊香保山中に逃れた。
このころ名を榛沢新六郎と称した<ref>『深谷市史』p741</ref>。
このとき惇忠の弟平九郎(渋沢栄一の見立て養子で渋沢平九郎)は故郷下手計村を目指して落ち延びたが、黒山(現、埼玉県入間郡越生町)に至って敵兵と遭遇し、自刃した(享年22歳)。

箱館五稜郭へ[編集]

その後、喜作はひそかに江戸に戻ると、最後は榎本武揚率いる軍に身を投じ、幕府軍艦に乗り込み箱館まで行き、五稜郭に立てこもった。明治2年(1869年)5月18日、榎本軍の降伏にともない投降した。

明治以降、実業家として[編集]

戊辰戦争後、渋沢喜作は榎本らとともに江戸辰の口の糾問所に入牢、明治5年(1872)に出獄する。渋沢栄一の勧めにより大蔵省勧農寮に七等官として出仕する。その後間もなく、蚕業調査のためヨーロッパ留学を命ぜられ、渡欧する。明治6年(1873)帰国するが、栄一が辞した後でもあり、喜作も大蔵省を辞す。その後、栄一を斡旋により、小野組糸方に就職、生糸貿易の海外拠点作りを企図し従事するものの、小野組糸方の倒産(明治7年)により頓挫。これを機に喜作は独立し、東京深川に廻船問屋を、横浜に生糸売込問屋を経営することとなる。明治12年(1879)、横浜における有力な生糸売込商であった吉村屋が閉店したのに伴い、喜作はその営業権を経営し、喜作の経営する渋沢商店は、横浜を代表する商店の1つとなる。しかし明治22年(1889)、喜作は渋沢商店の経営から引退することになる。これには喜作が米相場や弗相場(銀塊の相場)へ手を出したため大損失をこうむったためといわれる。<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一 、博字堂、2012)</ref>。
渋沢喜作が関係した主な会社には、以下のものがある。

  • 東京株式取引所(わが国初の株式取引所で明治11年(1878)設立。明治13年8月まで喜作が頭取)
  • 横浜洋銀取引所(明治12年(1879)設立)
  • 聯合生糸荷預所(喜作が頭取)
  • 共同運輸会社(日本郵船株式会社の前身)
  • 東京人造肥料会社(明治20年(1887)設立)
  • 東京製綱株式会社(明治20年(1887)設立)
  • 北海道製淺株式会社(明治20年(1887)設立 明治26年~36年まで喜作が社長)
  • 十勝開墾株式会社(明治30年(1897)設立 明治33年~36年まで社長)

晩年[編集]

引退後の喜作は東京芝白金の自宅で悠々自適の生活を送った。
大正元年(1912)8月30日、75歳で死去する。墓所は東京中目黒の祐天寺。

脚注・出典[編集]

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