渋沢平九郎

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渋沢平九郎(1847~1868)は、尾高惇忠の末弟で、渋沢栄一の見立て養子。諱(いみな)は昌忠。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

渋沢栄一の妻千代の弟である尾高平九郎は弘化4年(1847)下手計に生まれた。

見立て養子に[編集]

渋沢栄一はパリ万博親善使節の一員に選ばれて渡欧する際、平九郎を「見立て養子」とした。みずからの身に万一のことがあった場合は、自分の生家を継いで欲しいという願いからである。
このとき栄一から届いた手紙にはこう書かれている。
「見立て養子これ無くてはあい成らず候につき、平九郎こと養子のつもりにいたし置き候あいだ、さよう御承知成さるべく候」

彰義隊の結成[編集]

慶応3年(1867)5月、平九郎は江戸に出て、本銀町四丁目の役宅に入り、もっぱら文武の修業に励んだ。
同年10月、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還したのを契機に郷里に戻り、兄尾高惇忠とともに再び江戸に上り、翌年(1868)2月、渋沢喜作や須永於菟之助(伝蔵)らが彰義隊を結成すると、惇忠とともにこれに加盟。

振武軍の結成[編集]

徳川慶喜が謹慎場所を江戸から水戸へ移すと、徳川慶喜の身の安全を第一とする喜作ら一派と、あくまでも徹底抗戦を主張する副頭取の天野八郎一派との間に対立を見ることとなり、喜作・惇忠らと共にこれを脱退し、新たに振武軍を結成。5月23日、飯能において官軍を迎え撃ったが、衆寡敵せず、翌日正午には全軍潰滅状態となった。

自死[編集]

乱戦の中、平九郎は単身故郷をめざして逃走したが、顔振峠を下り越生黒山の地で敵兵に遭遇、3人まで切り伏せたが、みずからも傷つき、もはやこれまでと観念し、傍らの大岩に座して切腹して果てた。時に慶応4年(1868)明治と改元されるまであと4カ月、平九郎22歳の5月23日。
その首は一時越生町法恩寺門前に曝されたが、同地の人々によりひそかに同寺境内の林中に埋葬された。また、その胴体は、その死を憐れんだ黒山村民により同地の全昌寺に葬られた。

墓所[編集]

その後数年して遺骨の所在が判明すると、栄一は両所から遺骨を収め、上野寛永寺の渋沢家墓所に埋葬して、その死を悼んだ。 平九郎の最後の雄姿は彼と戦った倒幕軍の兵士を治療した宮崎通泰が一枚の絵にして残した。それから数年後この絵を見た中瀬の斎藤喜平は一見して描かれた武士が平九郎と見抜き、尾高惇忠へ知らせた。また平九郎が割腹に使用した小刀も、明治26年に倒幕軍参謀だった川合鱗三より渋沢家に返還された。