渋沢栄一

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渋沢栄一((しぶさわ えいいち) 天保11年(1840)~昭和6年(1931))は、明治・大正期の実業家。日本資本主義の父といわれる。500以上の産業を興すとともに、77歳からは社会福祉、国際親善、教育、労使関係など、600以上の社会事業に奉仕した。その生涯は農民・武士・官僚・民間実業家・社会事業家・民間外交と、多面的である。幼名を栄二郎といい、長じて青淵(せいえん)と号した。

渋沢栄一の生家(中の家)の正門(深谷市血洗島)

人物[編集]

渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。家は「中の家」(なかんち)と呼ばれ、養蚕藍玉(木綿の染料)の生産・販売を主業とする富裕な農家であった。幼少より漢学を習い、7歳の頃からは隣村下手計村に住む10歳年上の従兄弟尾高惇忠に師事する。

青年期には次第に憂国の情を募らせ、文久3年(1863)11月、従兄弟の尾高惇忠渋沢喜作らとともに、高崎城(現在の群馬県高崎市)乗っ取り・横浜異人館焼き打ちを企図するが、惇忠の弟尾高長七郎の必死の説得により、これを断念する。その後、郷里を出奔し、京都に一橋家の重臣平岡円四郎を頼り、翌年2月、同家に仕官する。

慶応3年(1867)正月、第15代将軍徳川慶喜の弟清水昭武を代表とするパリ万博親善使節の一員に選ばれ、渡仏する。およそ2年にわたる滞欧生活の間に、銀行制度や株式会社制度をはじめとするヨーロッパの先進文明に接し、のちの活躍の基礎を築く。パリ滞在中に徳川幕府が瓦解し、明治元年(1868)11月、帰国する。

明治2年(1869)1月、静岡に我が国最初の株式会社組織といわれる商法会所を設立。
同年11月、政府の要請により当時の民部省(のちの大蔵省)に入り、暦法や度量衡の改正・郵便制度の創設・鉄道の敷設等々、数々の改革に従事し、大蔵小輔(現在の次官の地位)にまで進むが、財政改革の主張が入れられず、明治6年(1873)5月、上司の井上馨とともに辞任する。
同年6月、我が国最初の銀行である第一国立銀行(のち第一銀行、現在のみずほ銀行)が設立され、総監役(のち頭取)に就任し、以後、王子製紙・東京商法会議所(のちの東京商工会議所)・大阪紡績(のちの東洋紡績)・帝国ホテル・東京石川島造船所・東京瓦斯株式会社・札幌麦酒等々、数々の企業や団体の創立・運営に参画し、その数は500社を越えるといわれる。

また、明治7年(1874)11月、東京府知事より共有金取締(江戸町会所の積立金を継承したもの)を命ぜられ、これを契機に養育院の経営やガス敷設事業をはじめとする数々の社会・公共事業にたずさわり、その数は600を越えるとされる。一橋大学・日本女子大学・早稲田大学への支援を始め、学術・教育の振興にも寄与する。慈恵会・済生会・聖路加国際病院など、医療機関の充実にも尽力する。晩年は、特に日米親善に心血を注ぎ、排日移民法の撤廃やワシントン軍縮会議の成功に向けて精力的に活動するなど、国際平和活動に尽力し、昭和元年(1926)と同2年(1927)の2度にわたりノーベル平和賞の候補になる。
昭和6年(1931)11月11日、享年92歳で、東京王子の自邸に没し、谷中霊園に葬られる。葬儀の当日、会葬者の数は3万人を越え、多くの人々がその死を惜しんだ。

経済活動には道徳が必要だとする渋沢栄一の経営理念は、その生前から「道徳経済合一説」として広く世に知られており、現在でも多くの企業家の尊敬を集めている。

年譜[編集]

天保11年(1840) 1歳(以下、数え年)
2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)に父・市郎右衛門(いちうえもん)、母・えいの三男として生まれる。生家は「中の家」(なかんち)と呼ばれ、養蚕や藍玉の製造・販売を家業とする富裕な農家であった。
弘化3年(1846) 7歳
隣村の下手計(しもてばか)村に住む従兄弟の尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)のもとまで、『論語』をはじめとする漢籍を習いに通う。
安政5年(1858)19歳
10月6日、尾高惇忠と一緒に製藍を長野方面の染色業者へ販売するために出かける(『巡信記詩』(尾高惇忠))。
惇忠の妹・尾高千代渋沢千代)と結婚。
文久元年(1861) 22歳
春、農閑期に限るという父の許しを得て、2カ月間、江戸遊学の旅に出る。下谷練塀小路の海保漁村の塾に寄宿しながら、千葉道場で剣を学ぶ。
文久3年(1863) 24歳
春、再び江戸に出て、海保塾で漢学を、千葉道場で剣を学ぶ。従兄弟の尾高惇忠渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取り、横浜異人館焼き討ちを計画するが、惇忠の弟尾高長七郎の必死の説得により、これを断念する(9月)。渋沢栄一は、渋沢喜作とともに深谷を出奔、京都に一橋家の用心平岡円四郎を頼り、翌年2月、一橋家に仕官する。
慶応3年(1867) 28歳
第15代将軍徳川慶喜の弟清水昭武に従い、パリ万国博覧会の親善使節の一員に選ばれ、渡仏する(1月)。
ヨーロッパ各国を巡遊し、近代的な産業や文化のありさまをつぶさに観察、後年の活躍の基礎を築く。
明治元年(1868) 29歳
徳川幕府の崩壊によりヨーロッパより帰国する(11月)。
明治2年(1869) 30歳
1月、静岡に我が国最初の株式会社といわれる商法会所を設立。11月、栄一は請われて民部省(後に大蔵省となる)に出仕、以後数々の改革に率先して従事する。
明治6年(1873) 34歳
財務改革の主張が認められず、上司の井上馨とともに大蔵省を辞職。8月、第一国立銀行が開業、栄一は総監役となる。翌々年1月、頭取となる。その後栄一は、数々の企業の創立や運営にたずさわり、関係した企業は500社に及ぶといわれる。
明治 7年(1874) 35歳
東京府知事より共有金の取締を命ぜられる。養育院及び瓦斯局の事務を管理する。
明治9年(1876) 37歳
東京養育院事務長に就任。明治18年には院長となり、以後死に至るまでその整備・発展に尽力した。栄一が生涯にわたり関係した社会公共事業は600にのぼるといわれる。
明治11年(1878) 39歳
益田孝・大倉喜八郎らと東京商法会議所を設立する。隅田川の船遊びで岩崎弥太郎と意見の対立を見る。
明治16年(1883) 44歳
三井の益田孝らとともに共同運輸会社を設立し、当時我が国の海運業を独占していた岩崎弥太郎率いる三菱汽船会社に戦いを挑んだ。両者の競争は激化して共倒れの危機に瀕し、ついに合併して、明治18年9月、日本郵船が設立される。
藤田伝三郎・松本重太郎らと大阪紡績会社を開業する。
明治26年(1893) 54歳
かねてよりインド綿花輸入のためボンベイ定期航路の開設を企図し、インドの夕夕商会・大日本紡績聯合会・日本郵船との間を斡旋し、11月、その第一船広島丸を神戸より出港させた。英国のピー・オー汽船会社の独占を打破するためであった。
明治42年(1909) 70歳
第一銀行・東京貯蓄銀行を除き、60数社の役員を退任する。渡米実業団を率いてアメリカ国内を巡歴する(8/19~12/17)。
明治45年(1912) 73歳
宗教や人種の違いを超えた人類融和をめざし成瀬仁蔵・浮田数民・姉崎正治らと帰一協会を組織する。
大正 2年(1913) 74歳
米国カルフォルニア州における日本人移民排斥問題に対処するため添田寿一・中野武営らと日米同志会を組織する。
大正 4年(1915) 76歳
排日移民問題解決のため渡米する(10/23~1/4)。
大正5年(1916) 77歳
7月、第一銀行頭取を辞す。その他いっさいの財界との関係を断ち、以後社会公共事業にのみ関係することとなる。
大正7年(1918) 79歳
1月、25年の歳月をかけた『徳川慶喜公伝』を刊行する。
大正 9年(1916) 81歳
添田寿一・阪谷芳郎らと国際連盟協会を組織する。
大正10年(1921) 82歳
10月、渡米し、ワシントン軍縮会議の成功を願い、日米親善に務め、米国の財界人に多大な感銘を与えた。栄一の渡米は、これ以前の明治35年(63歳)、明治43年(70歳)、大正4年(76歳)の3度の渡米を含め全部で4回にも及んだ。
大正12年(1924) 84歳
大震災善後会副会長として尽力する。
大正14年(1925) 86歳
10月、自らの解説になる『論語講義』を二松学舎出版部より刊行した。
昭和 4年(1929) 90歳
インドのの詩人タゴールを飛鳥山の自邸に迎える。
昭和6年(1931) 92歳
11月11日、東京王子の飛鳥山の自邸で永眠する。


出典:『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一、博字堂、2012)

生涯[編集]

生い立ち[編集]

渋沢栄一が生まれた武蔵国榛沢郡血洗島村は当時岡部藩領。父・市郎右衛門(1809-1871)、母・えい(1811-1874)の三男として生まれた。長兄、次兄ともに夭折したため、長男として育てられる。生家は「中の家」(なかんち)と呼ばれ、渋沢一族の中では本家筋にあたる。中の家は代々農業を営んでいたが、名字帯刀を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりと売買のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねていた大変裕福な家であった。

渋沢栄一の生家(中の家)の主屋(深谷市血洗島)

『中の家』略系図[編集]

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幼少時代[編集]

5、6歳のころより父市郎右衛門に句読を授かるなど、学問の手ほどきを受ける。
7、8歳のころより隣村下手計(しもてばか)村に住む従兄弟の尾高新五郎(諱は惇忠(じゅんちゅう))(1830-1901)のところまで学問を習いに通う。この尾高塾で、四書(『論語』『大学』『中庸』『孟子』)・五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)をはじめ、『文選』『左伝』『史記』『漢書』『十八史略』『元明史略』のほか、わが国のものでは『国史略』『日本史』『日本外史』『日本政記』など、さまざまな書物を学んだ。
また、書は父・市郎右衛門の長兄で「東の家」渋沢家三代目当主の宗助(号は誠室 1794-1870)に学んだ。

渋沢栄一と剣術[編集]

剣術は、川越藩剣術指南役の神道無念流・大川平兵衛に学んだ。のちに、江戸遊学では神田お玉が池の北辰一刀流千葉道場で、千葉周作の息子の栄次郎について学んだ。
栄一の剣道について、大保木輝雄(埼玉大学教育学部教授 剣道部総監督 平成24年現在)は以下のように記している。

「渋沢栄一翁と剣道―日本の近代化と共に」より
「渋沢家や尾高家の男子は皆文武両道を治めるのが家風であった。中でも2歳長兄の従兄尾高長七郎は22歳で免許皆伝になるような天才的な剣の使い手であり、農閑期には栄一は家業の藍商もかねて長七郎の後に従い栃木、群馬方面に他流試合に出かけるのが常であったという。また彼らの師である大川平兵衛(1801-1871)に随行することもあり、彼らの精妙で神技に近い剣術を目の当たりにしていたのである。このころの栄一を、孫の渋沢華子はその著書で「胴長短足小太りで、腕力は強く米俵の一俵はかるがると持ち上げるが、剣術は苦手だった」と記している。その後、栄一は24才にして志士として江戸に出、漢学塾と千葉道場に入門した。そのねらいは「読書・撃剣などをする人の中には、自然と良い人がいるものだから、抜群の人々を撰んでついには己の友だちにして、何かことある時に、その用意をして置かなければならないという考えであった」(『雨夜譚』)という。
その後、撃剣の取り持つ縁で一橋慶喜の家来となったときそのねらいは的中した。慶喜に認められ、その後の人生を決定的なものにしたのは、「幕府の小栗上野介が農民兵を募集したそれにならい」、一橋家領地備中板倉で歩兵志願者を募り農兵を組織したことであった。当初一人も集まらず、栄一は思案の末、村民の信頼を得るために当地の「読書撃剣の知性人」を求め会談と撃剣試合を実施し大いに語り合い痛飲した。それが「今度来ておるお役人は学問もあり、撃剣も強い」という評判になり、これを契機に続々と歩兵志願兵が集まって慶喜の絶大なる信頼を受けることになった。撃剣が身分制度や貧富の差を超えた人物の資質を評価するものとして機能することを栄一は体得していたのだ。」<ref>「渋沢栄一翁と剣道―日本の近代化と共に」(埼玉大学教育学部教授 剣道部総監督 大保木輝雄著、埼玉剣道連盟機関紙『剣風』第2号 平成24年6月 所収)</ref>。
剣道場「練武館」と長七郎との試合について

また、関口善行(前深谷剣道連盟会長 平成24年現在)は、尾高長七郎との試合について以下のように記している。

「11才になった嘉永4年(1851)は、従兄弟の渋澤新三郎長徳(宗助)の門に入り神道無念流の剣術を習い始めた。従兄弟の長七郎弘忠が書き残した『剣法試数録』によると、長七郎と栄一の試合数は4月に10回で14試合、5月は1回1試合、12月は8回8試合の合計23試合とある。勿論他の門人とも試合は行われたであろう。試合は現在の試合とは意を異にするかもしれないが、このような文武両道にわたる激しい修行によって、心身共に鍛えられていったであろう。道場は、「練武館」と称し、惇忠家の道を挟んだ南側にあった。近所の子らは竹格子からよく中をのぞいたという。現在は高さ40cmほどの石組みだけ残っている。」

高崎城乗っ取りと横浜の異人館焼き討ち計画[編集]

渋沢栄一の青年期は、尊皇攘夷と倒幕運動が高まった時代にあたる。尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢喜作を中心に倒幕計画が練られ、同士70名ほどで、文久3年(1863)の冬至(旧暦の11月12日)の日を期して、高崎城乗っ取りと横浜の異人館を焼き討ちするという計画が立てられる。これに合わせて栄一は、藍玉の商売に使う資金のうちからおよそ150両ほどを持ち出し、神田柳原町にあった武具商梅田慎之助から、ひそかに武器を大量に買い入れ、利根川を舟で遡上して中瀬河岸から荷揚げし、惇忠の家の2階に隠した。10月29日の夜、尾高家の2階で最後の評定が行われ、このとき京都から戻ったばかりの惇忠の弟、長七郎の説得により、計画は中止となる。

一橋家の家臣に[編集]

文久3年(1863)11月12日の冬至の日を期して攘夷倒幕の兵を挙げようとしていた栄一は、9月13日の夜、自宅に惇忠・喜作を招き、父市郎右衛門とともに「後の月見」の祝宴を催した。国事に奔走する決意を語り、それとなく父に別れを告げることが目的であった。翌日、栄一は江戸へ向かった。決行を前に武器の調達や同志との連絡などに当るためであった。
この江戸滞在中に、同じく江戸へ出ていた喜作とともに、一橋家の家臣川村恵十郎(のち正平)を介して同家の重臣(側用人兼番頭)平岡円四郎の知遇を得ることになった。平岡は、旗本五千石の大身岡本近江守の四男で、平岡家の養子となり、その後水戸藩の藤田東湖らの推薦により一橋家に仕えることになったものである。
川村は、栄一と喜作に一橋家仕官をしきりに勧めた。川村は建策して、関東にある一橋家領地の中より、農民で武芸に達した者を新規に召抱えることに当っていた。農民の身分を偽って両刀を帯し同志と横行するなどしていた栄一らは、領主安部侯の嫌疑するところでもあり、一橋家に仕官し、武士の身分となることは、攘夷決行に当っても何かと便利な面があったものと思われる。平岡も、栄一・喜作両人を見所のある若者として認め、家臣として召抱えるつもりでいた。こうした経緯があって、栄一・喜作の両人は、郷里を出奔後、江戸を経て京都に平岡円四郎を頼ることになったのである。
元治元年(1864)2月9日、栄一と喜作の両人は一橋家に仕えることとなる。四石二人扶持、奥口番の身分となり、御用談所調方下役出役を命ぜられた。御用談所は、宮中や公家、諸藩との外交事務を取り扱う役所である。
慶応2年(1866)幕臣となる。

パリ万博の随行と幕府瓦解[編集]

左:慶応2年(1866)、右:慶応3年(1867)

慶応3年(1867)1月に栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行員(庶務・会計担当)として渡欧する。このとき、栄一は尾高惇忠の弟・尾高平九郎を見立て養子とし渋沢平九郎とした。この随行で、栄一は欧米列強との文明・産業・軍備の圧倒的な差に驚いた栄一は、使節団業務のかたわら西欧の近代工業社会や資本主義経済活動を積極的に見聞した。
日本では士農工商の末端に位置するとされた卑しい商人が、西欧では軍人(日本では武士)と対等に会話し、社会をリードする実業家として社会から尊敬されており、日本では家業・生業にすぎす、私利私欲を目的とした「商売」が、西欧では利益を追求することは卑しいこととされず、組織化された商業として発展し、ひいては一国の経済を支えているいることに感銘する。このとき「道徳と経済の一致」という理念が生まれ、後年の活躍の基礎を築かれたといえる。渋沢栄一、28歳のときであった。
この随行中に徳川幕府が瓦解する。大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月に栄一は新政府から帰国を命じられ、明治元年11月3日(1868年12月16日)、仏国郵船アンベラトリス号で横浜港へ帰着した。
このときの心境を、栄一は後年、次のように述懐している。

「実際あの時ばかりはサアこれからと云う処で帰国することになって、私としては全く方向を失つた気持であった。最初に考えてをつた政治に就いては何ら学ぶ所もなかったし、技術家になるには技術の腕がない。まして今更百姓になる気にはどうしてもなれず、一層首でも括って死んで仕舞ひ度い気にもなった。」<ref>「雨夜譚会談話筆記」(『渋沢栄一伝記資料集第2巻』 p96)</ref>
  • 参考文献
「1867年第2回パリ万博」(『博覧会 近代技術の展示場』(国立国会図書館ホームページ))

商法会所の設立[編集]

帰国した栄一は、朝敵の汚名をこうむったまま静岡市中宝台院に蟄居中の徳川慶喜に面会するため静岡に向かった。このとき栄一は、徳川昭武から預かった慶喜宛の手紙とともに、昭武一行にかかわる金銭出納報告書ならびにその残金を、静岡藩庁に届け出た。藩庁では、栄一の功に報いようと勘定組頭に任命しようとしたが、栄一はこれを辞退し、藩財政を豊かにする施策を提言した。それは今でいう銀行と商社の機能を兼ねた合本組織(=株式組織)の設立を目指すものであった。
栄一の提言は静岡藩に聞き届けられ、我が国初の株式会社組織といわれる「商法会所」として設立する。
当時、新政府は太政官札(紙幣)を発行したが、財源の裏付けがなかったため信用面で不安があり、思うようにな流通しなかったため、この太政官札を各藩の石高に応じて貸し付けることで、無理にもこれを流通させようとしていた。
栄一は、まず静岡藩から太政官札で25万両余りを出資してもらったほか、当座の運転資金として現金1万6千両余りも出してもらった。これに加えて近郷近在の商人を始め一般からも出資してもらい、合わせて29万4千両余りを集めた。このとき、株主の募集には広告という方法をとった。 このときの規則は以下のようなものである。

  • 組合商法会所規則
今般御城下おゐて商法会所御取建、組合商社御開被成候儀ハ、国中の金銀融通よろしく、御国産相殖候様との御趣意ニ而、全御領民利潤いたし候ための御仕法ニ候間、掛り役々とも別而厚く相心得、正路之取扱いたし、御趣意相貫候様可致候事
一 組合加入相望候ものハ、士農商の無差別、出金の多少に不拘商法に組込出金いたし、利益相計り候とも、又は金利取ニ而加入いたし候とも、当人勝手次第たるへく候、尤無拠儀有之、御免相願候者ハ商法に加入候ハゝ、其年の勘定済之上ニ而元利下戻し可申、金利取ニ而加入之者ハ月割を以元利相戻可申事 但、壱ヶ年未満ニ而御免相願候ものハ、出金より三ヶ月迄は無利足之事(以下略)

株主の募集にあたっては、武士であろうと百姓、町人であろうと、身分による差別を設けない。出資額の大小によっても差別を受けることがない。この2点を大きく打ち出している。 また、事業内容において注目すべきことは、金融事業として出資者に対する貸し付けをおこなっているが、出資額までは無担保で貸し付け、出資額を超える場合には、商法会所において取り扱いのできる商品をもって担保とし、土地や家屋などを担保とする貸し付けは行っていないということである。これは商法会所がめざす金融が単なる金貸し業としてのそれではなく、地域の商人を育て、地域の産業を振興することが目的だからである<ref>『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一、博字堂、2012)</ref>。
商社としては、米・茶・塩・砂糖・肥料・水油・半紙・下駄・鼻緒などが取り扱われた。
ここに、栄一が西洋で学んだことが実現され、「道徳経済合一説」に基づいた経済近代化政策が実行されはじめた。

明治新政府へ出仕と経済近代化政策[編集]

静岡における商法会所の成功を見た明治政府は、栄一を政府に招いたが断固としてこれを断るも、再三の要請および大隈重信の説得により、明治2年(1869) 11月、民部省(後に大蔵省となる)に出仕し、明治6年5月に辞職するまでの間に数々の経済近代化政策を立て続けに実施した。

  • 度量衡の改正
  • 租税制度
  • 駅逓法
  • 貨幣制度及び禄制
  • 鉄道敷設
  • 諸官庁の事務章程
  • 公債制度
  • 紙幣制度
  • 銀行条例
  • 廃藩置県に関する諸制度
  • 会計法

等々、そのたずさわった分野は多岐にわたり、まさに超人的な仕事ぶりというほかはない。
しかしながら、こうした仕事に精力的に従事する一方、栄一は、国家の発展は民間諸力が向上してこそ初めて成るものだとの信念を固めてもいた。17歳の折に、岡部の陣屋で、栄一が応対の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名だが、この時以来「官尊民卑」の打破は、栄一にとって生涯を賭けて取り組むべきテーマの一つになった。

明治政府から退く[編集]

明治6年(1873) 、栄一は財務改革の主張が認められず、上司の井上馨とともに大蔵省を辞職する。34歳のときであった。

井上馨・渋沢栄一「財政改革に関する奏議」

明治6年5月7日

開明の政理上を主とするは、形を以てする者にして、開明の民力上を重んずるは、実を以てする者なり。形を以てする者は求めやすくして、実を以てする者は致し難し。今欧米諸国は民皆実学を務めて智識に優なり。ゆえに人々各自その力に食む能わざるを以て大恥となして、我が民はすなわちこれに反す。・・・・・これに由りてこれを観れば、今日の開明は民力上を重んずるものにあらずして、政理上に空馳するもの、もとより智者を俟って後に知らざるなり。・・・・・およそ天下の事は預め標準を高遠に期せざるべからずといえども、その手を下すに方っては、すなわち歩々序を逐い、着々実を認め、政理をして民力と相負(そむ)かざらしむるを要す。・・・・・それ官その人多ければ、必ずその事を作(お)こすを好む。既にその事を作こすを好めば、必ずその功を成すを喜ぶ。・・・・・これゆえに事務日に多きを加えて、用度月に費を増し、歳入常に歳出を償う能わざれば、これを人民に徴求せざるを得ず。・・・・・政府既に斯民を保護するに道を得ず、斯民それ何を以て蘇息するを得んや。・・・・・欧米諸国の民たる、概ね智識に優にして特立の志操を存す。かつてその国体の然らしむる所より、常に政府の議に参するを以て、その相保持する、なお手足の頭目を護するが如く、利害得失内に明らかにして、政府はただこれが外延たるに過ぎず。今我が民すなわちこれに異なり、久しく専擅(せんせん)の余習に慣れ、長く偏僻(へんぺき)の固陋に安んじ、智識開けず志操確からず、進退俯仰、ただ政府の命にこれ遵い、いわゆる権利義務等の如きに至りては、未だその何物たるを弁ずる能わず。・・・・・政府の事を施為する、能く我が国力を審(つまびら)かにし、能く我が民情を察せずんばあるべからず。それ出るを量りて入るを制するは、欧米諸国の政(まつりごと)を為す所以にして、・・・・・斯民をして蘇息する所あらしめ、天下をして、政府の趨(おもむく)く所、大いに昔日に異なるを明らかにせしめざるべからず。

実業家の道[編集]

その後栄一は、数々の企業の創立や運営にたずさわり、関係した企業は500社に及ぶといわれる。

日本煉瓦製造株式会社[編集]

日本煉瓦製造株式会社は、明治21年(1888年)に現在の深谷市上敷免(じょうしきめん)において操業を開始し、平成18年(2006年)までの120年間にわたり存続したレンガ製造会社である。
明治政府は銀座周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、明治19年に臨時建築局を設置した。建物群は西洋風のレンガ造りとするため多量のレンガが必要となり、政府は実業界の重鎮渋沢栄一に大量生産が可能がレンガ工場の設立を要請した。これを受けて、渋沢は、工場建設地として実家近くの上敷免村を推薦した。これは、従来から瓦生産が盛んで、良質な粘土が採れること、また小山川から利根川に下り、江戸川を経て隅田川を通り東京方面へ舟運が見込めたためである。
明治20年(1887)10月、渋沢栄一他4名の連名で、「会社設立願」を東京府庁へ、「煉瓦製造所設立願」を埼玉県庁へ提出、認可される<ref>「日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設」(深谷市教育委員会発行)</ref>。

大阪紡績株式会社[編集]

明治10年(1877)に西南戦争が勃発、政府は戦費調達のために大量の紙幣を発行、戦乱終了後、極端な物価騰貴を招いた。これに加えて外国製品の輸入が増大、その半ば以上を占めるのが庶民の日常生活に欠かせない綿糸・綿製品であった。こうした事態を憂慮した渋沢栄一は、どうにかして国内で綿製品を製造するようにしたいと考え、関西の実業家である藤田伝三郎や松本重太郎らと協力、前田利嗣(としつぐ)(旧加賀藩主)・蜂須賀茂韶(もちあき)(旧阿波藩主)・毛利元徳(もとのり)(旧長州藩主)など華族10数名にも出資を仰ぎ、明治16年(1883)7月、大阪三軒家(さんげんや)に大阪紡績株式会社を開業した。同社は、当時最新の英国製紡績機械を導入、我が国初の株式会社組織による大工場として、大いに世間の注目を集めた。同19年(1886)9月には電灯設備を完備、日本で最初に夜間操業を開始したことでも知られている。同社は設立当初から好成績を上げたため、これを範として後続の紡績会社が次々に設立され、明治期における日本経済発展の原動力となった。同社はその後、三重紡績株式会社と合併して東洋紡績株式会社となり、現在に至っている。

富岡製糸場[編集]

渋沢栄一の10歳上の従兄弟である尾高惇忠が、官営富岡製糸場の初代工場長をつとめた。

第一国立銀行[編集]

尾高惇忠が第一国立銀行仙台支店支配人などをつとめた。

東京商工会議所
東京証券取引所
日本郵船
帝国ホテル
王子製紙
サッポロビール
浅野セメント
帝国劇場

社会活動[編集]

渋沢は社会活動、慈善運動にも熱心であった。

日本赤十字社[編集]

明治10年5月西南戦争の際、佐野常民・大給恒等、彼我の別なく傷病者を救護するため博愛社を創立。
明治13年1月17日、渋沢栄一同社社員となる。
明治19年10月30日、栄一同社議員に選任される。
明治20年、ジュネーブ条約に加盟し、日本赤十字社と改称される。
明治26年6月より明治37年10月まで、同社常議員を務める。

東京慈恵会[編集]

明治40年4月、東京慈恵院幹事長有栖川宮威仁殿下の依頼により、同院拡張のための資金募集相談役兼委員長となる。
明治40年7月より、以後栄一はその没年に至るまで、同会の発展に尽力する。

済生会[編集]

明治44年3月、皇室よりの御下賜金を基に恩賜財団済生会が設立される、栄一寄附金募集に奔走する。
明治44年8月より、栄一同会顧問並びに評議員として、その没年に至るまで尽力する。

聖路加国際病院[編集]

大正3年7月、同病院拡張のため、栄一評議員会副会長並びに会計監督として尽力する。以後、その没年に至るまで同病院の発展に寄与する。

国際親善と国際平和活動[編集]

渋沢栄一は数多くの団体・活動にかかわった。また民間外交を積極的に推し進めた。ノーベル平和賞の候補(1926年と1927年)にもなっている。

国際団体[編集]

  • 日露協会 相談役 特別会員 基金募集委員長(明治35年)
  • 日印協会 会員 評議員 副会頭  会頭(明治36年)
  • 日仏協会 終身会員 名誉会員(大正7年)
  • 日華学会 顧問 会長 顧問(大正7年)
  • 日仏会館 審査実行委員 創立委員会理事長(大正6年)
  • 国際連盟協会 会長(大正9年)
  • 日米同志会 会長(大正2年)
  • 日米関係委員会 常務委員(大正5年)
  • 日米協会 名誉副会長(大正6年)
  • 太平洋問題調査会 評議員会会長(大正14年)
  • 日本国際児童親善会 会長(大正15年)

外賓接待[編集]

  • アメリカ前大統領グラント将軍夫妻 飛鳥山邸午餐会(明治12)
  • ハワイ皇帝カラカウァ 飛鳥山邸茶菓会(明治14) 
  • ドイツ皇族フリードリッヒ・レオポルド 飛鳥山邸晩餐会(明治20)
  • ロシア皇太子ニコライ(明治24)
  • イギリス前海軍大臣スペンサー(明治29年)
  • イギリス連合商業会議所派遣委員チャールズ・ベレスフォード(明治32年)
  • アメリカ海軍少将フレデリック・ロジャース(明治34年)
  • 清国皇族貝子載(明治36年)
  • アメリカ陸軍大臣ウィリアム・タフト(明治38年)
  • イギリス皇族アーサー・オブ・コンノート(明治39年)
  • カナダ駅逓総監兼労働事務大臣レミュー(明治40年)
  • アメリカ太平洋岸商業会議所代表委員 飛鳥山邸午餐会(明治41年)
  • アメリカ大西洋艦隊(明治41年)
  • インド、パロダ国王マハラジャ・サヒブ・ガイカー 飛鳥山邸晩餐会(明治43年)
  • インド、ムルバンジ国王バンジ・デオ 飛鳥山邸午餐会(明治43年)
  • アメリカ国務卿ノックス 飛鳥山邸午餐会(大正1年)
  • 中華民国国民党党首 孫文(大正2年)
  • メキシコ答礼大使フランシスコ・レオン・デ・ラ・バラ(大正2年)
  • ロシア皇族ゲオルギー・ミハイロヴィッチ(大正5年)
  • インド詩人タゴール 飛鳥山邸午餐会(大正5年)
  • インド詩人タゴール 飛鳥山邸茶話会(大正13年)
  • インド詩人タゴール 飛鳥山邸茶話会(昭和4年)
  • 中華民国前総理唐紹儀、殷汝耕(大正7年)
  • イギリス皇族アーサー・オブ・コンノート(大正7年)
  • フランス元帥ジヨッフル(大正11年)
  • イギリス皇太子エドワード(大正11年)
  • ベルギー王子シャール・テオドール(大正11年)
  • アメリカ海軍卿エドウィン・デンビー(大正11年)
  • 中華民国前革命軍総司令 蒋介石(昭和2年)

国際災害救助[編集]

  • 清国飢饉救済(明治11年)
  • サンフランシスコ震災義捐金募集(明治39年)
  • イタリア震災救助義捐金募集(明治42年)
  • 広東地方水害罹災民救恤義捐金募集(大正4年)
  • 天津水害義助会 会長(大正6年)
  • 北支旱魃飢饉罹災民救済(大正9年)
  • 中国災民児童救済及び帰国援助(大正10年)
  • アルメニア難民救済委員会 委員長(大正11年)
  • ドイツ国難民救助(大正11年)
  • 関東大震火災在日罹災外人救済(大正12年)
  • フロリダ大風災義捐金募集(大正15年)
  • フランス共和国西南部水害義捐金募集(昭和5年)
  • 中華民国水災同情会 会長(昭和6年)

渋沢栄一と教育[編集]

日本の近代経済社会の基礎を築いた渋沢栄一であるが、教育の分野においてもまた多彩な活動(商業教育、実業教育、女子教育、奨学金制度、留学生支援など)の跡が見られる。

東京商法講習所[編集]

早くは明治8年(1875)には東京商法講習所(現、一橋大学)の経営に参画している。これを契機に、その後は商業教育、実業教育の必要性を説き、その充実・発展に努めた。また同志社大学・慶応義塾・大倉商業学校(現、東京経済大学)・早稲田大学・高千穂学校(現、高千穂大学)・二松学舎など、数々の私学の助成にも熱心に取り組んだ。

東京女学館[編集]

明治政府は、不平等条約の改正を有利に進めるため、極端な欧化政策をとった。明治16年(1883)東京の日比谷に竣工した鹿鳴館を会場にしばしば催された舞踏会は、その象徴的なものであった。時の総理大臣兼宮内大臣伊藤博文は、欧米の婦人と対等につき合える日本女性の必要性を痛感し、渋沢栄一、岩崎弥之助(三菱財閥)、外山正一(東京帝大総長)らに協力をよびかけ、女子高等教育機関の設立を発案した。こうしてできたのが女子教育奨励会で、渋沢栄一は創立委員の一人として、商工業者の間に資金の募集に奔走するとともに、その資金の出納を監督した。この女子教育奨励会によって、明治21年(1888)9月、宮内省所管の赤坂門内旧雲州屋敷を貸与され開校したのが東京女学館である。2年後には、旧工部大学校生徒館を貸与されてここに移転、大正12年(1923)関東大震災により焼失するまで「虎の門女学館」として通称された。その後現在の渋谷区広尾の地に移転し、現在に至っている。渋沢栄一は創立以来同校の評議員(会計監督)をつとめ、大正13年(1924)1月よりは館長を兼任し、昭和5年(1930)9月同校の財団法人設立認可により、その理事長に就任するなど、生涯にわたりその発展に尽力した。

日本女子大学校[編集]

現在の日本女子大学は、明治34年(1901)4月、成瀬仁蔵を創立者として、家政・国文・英文の3学部と英文予科をもって、東京目白台に開校した日本女子大学校がその前身である。その敷地5,500坪は三井家が寄附し、伊藤博文・大隈重信・岩崎弥之助・住友吉左衛門・森村市左衛門・渋沢栄一など、多くの人々による資金協力によって実現したものであった。成瀬仁蔵は、女子を「人間として、婦人として、国民として」育成することを目的に、「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の三大綱領を教育方針として掲げた。渋沢栄一は、当校の発起人また創立委員(会計監督)として、明治37年(1904)からは評議員として、昭和6年(1931)4月には校長に就任するなど、生涯にわたりその発展に尽力した。戦後は、新制大学として現在の校名に変更、昭和36年(1961)には女子の私立大学としては我が国初の大学院を設置するなど、女子の総合大学として発展してきた。平塚らいてう、高村智恵子、宮沢トシ(宮沢賢治の妹)などを輩出している。

深谷における援助[編集]

深谷では、大正11年(1922)に町民有志の寄付により深谷商業学校(現、埼玉県立深谷商業高等学校)が設立されるが、この時に栄一は多額の寄附をしている。また、生誕の地血洗島に近い八基尋常高等小学校(現、深谷市立八基小学校)については、明治29年(1896)の創立以来、たびたび多額の援助を行っている。

中国留学生支援活動[編集]

渋沢栄一が中国留学生に対し支援を行っていたことはあまり知られていないが、資料<ref>『渋沢栄一による中国留学生支援活動』(見城悌治先生講演 平成24年2月19日 財団法人渋沢栄一記念財団竜門社深谷支部)</ref>によれば以下のような活動が見られる。

  • 1918年、「日華学会」(中国留学生を支援する団体)を立ち上げる。初代会長は小松原英太郎(元文部大臣、当時東洋協会会長)。渋沢栄一は顧問に就任。翌年小松原の急逝に伴い渋沢が半年間2代目会長を務めた。
  • 日華学会の活動の1つは、劣悪な下宿の改善にあった。1918年に湯島天神に「第一中華学舎」を開設、以後、女子寮、男子寮などを整える。
  • 1925年には留学生に対する日本語教育のために、東亜高等予備学校を開校した。
  • 中華基督教青年会(1907年に設立された、キリスト教精神によって留学英の人格向上を目指そうとする社会機関)への補助

渋沢栄一に関係する主な近代化遺産(建造物)[編集]

渋沢栄一関連の主な近代化資産<ref>近代化遺産とは 1.国家や社会の近代化に関連する文化遺産のこと。 2.日本の文化庁が定義している文化遺産保護制度上の概念の一つで、幕末から第二次世界大戦期までの間に建設され、日本の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る建造物。 </ref>を列挙する。

  • 旧富岡製糸場(187年開業/2006年重要文化財指定)
  • 日本煉瓦製造株式会社旧施設*(1889年開業/1997年重要文化財指定)
  • 碓氷峠鉄道橋梁施設*(1893年竣工/1993年重要文化財指定)
  • 迎賓館*(1909竣工/2009年国宝指定)
  • 東京駅丸ノ内本屋*(1914年竣工/2003年重要文化財指定)
  • 誠之堂*(1916年竣工/2004年重要文化財指定)
*印は日本煉瓦製造株式会社の製造した煉瓦を使用。

渋沢栄一翁の言葉[編集]

渋沢栄一「『中外商業新報』の発刊に際して述べた言葉」

明治22年(1890)1月

私はさらにここに希望を述べる-これは独り中外商業新報にばかりでないが、経済というものをただ利害のみによって判断するのではなしに、正しい道理によって判断するということにならなければならぬと思う、つまり「富」というものは持って居るその人だけが真の富ではなくて、世の中の大きな利益が真の富であるというように誰もが考えてもらいたいのである、独りで貨財を集めるということは出来るものでない、また仮に出来たところでそれは真の富にはならない、どうしても全体の人の進歩を図り、全体の人の人格を進め全体の人の事業が進んで来るということになって初めて真の富というものが生ずるのである、ただ個人的に独りで貨財を集めても決して栄華を得るわけにはいかない、己立たんと欲して人を立たせ、己達せんと欲して人を達すという孔子の教えが、経済界にも適用されなければならぬと思う。
渋沢栄一「借金して株を持つ勿れ」

明治40年1月『中央新聞』

景気を見て株を売買するなら相場すべしで、是れは事業家ではない。金さえ取れば好いと云ふなら、極端に云へば泥棒するのが好いのです。苟くも事業家たる以上は其事業を盛んにするのが一番の目的で、今の理由に依り己の力の度を計つて、借金して株を持つ様な事は止すが好かろうと思ひます。己の力の程度以外に力を入れると、事に依れば己を誤り人を誤る事になる。是れは至つて陳腐でありますが、総ての人が此覚悟さへ持つて呉れると憂ふるに足らない。
渋沢栄一「我経済界の大勢を論じて当局者の猛省を促す」

明治41年3月『太陽』

我国の今日の経済界が斯くの如くに闇澹と為り、斯くの如くに沈衰するに至りし原因は、言ふまでもなく主として三十七八年戦後の財政が宜しきを失つたことに帰せざるを得ぬ。・・・・・今日の難関を切り抜くる為には、軍事上、政治上、その不生産的の事は飽く迄も節減して、生産的の事に十分の力を入れて、以て財政を整理するの方針を取る一事である。・・・・・縦令多数の力を籍りて議会は之れを通過せしむることが出来たとしても、到底国力の維持すべからざる案を立てて之れを国民に強ひんとする如き事には何うしても反対せざるを得ない。
渋沢栄一「本分にともなう報酬」

明治45年刊・『青淵百話』

もしここに一人ありて説を立てていう、「個人は国家の一分子であるから、個人個人のもうけることは畢竟国家の利益である。ゆえに各自に利益を得ることを主眼としておればまちがいはない」という意見を抱いたとしたら、その結果はいかがであろうか。仮にこの意義を推し広めてみると、「人力車をひくのは賃銭を得るためであるが、もし賃銭さえもらえれば人力車はひかないでもよい」と、こういう風な議論になるの恐れがある。しかしながら、これは恐らく至当な議論として許すことはできまい。余の説をもってすれば、人力車をひかずにただ賃銭だけをもらうということは、あるいは車夫としては希望するところであるかも知れないが、人間の常道から論ずれば必ずしも希望すべきところではあるまいと思う。要するに人力車をひくという人間の本分を遂行することによって、そこに賃銭という報酬が生じて来るのであって、本分を遂行して得たところの報酬によって一身を立ててゆく。これ即ち人間の常道を踏むものにして俯仰天地に愧じざるところである。この理と同じく、商業家は有無相通ずることがその業務であると考えてみると、その有無を相通ぜしむることに対して、その智慧その働きの程度いかんにより、その報酬があるいは多くなりあるいは少なくなるのである。かくして多かれ少なかれ、その分を尽くして得たる報酬によって身を立てることが人間最高の道であろう。いたずらに報酬の多きを欲するがために人道を無視し道徳を軽んずるがごときは、決して処世上の目的に添うものでなく、彼の車夫が車をひかずに賃銭を得んとすると同一論法となってしまうのである。
幸田露伴「青渕先生の後半生」

昭和15年1月『龍門雑誌』

それで後年の労使協調会の仕事などといふものもさうでありまするが、元来青渕先生は若い時から、所謂合本協力といふことを頻りと言はれた。後に至つて資本主義などといふ言葉が出たので、さも資本主義の人のやうに思はれるに至りましたが、さうではない。青渕先生のは資本主義ではなく合本主義で、大勢の力、衆といふ大勢のものを対象にして、大勢を一緒にして幸福にして行かうといふので、勿論資本の力を認めぬことはないが、決して資本一点張りの主張者では無い、大ぜいの人、即ち衆に対して其利を得させようといふ主張であつたのです。ましてや自分達幾人かの資本者が幸福を得よう利得をしよう、さういふけちなものではなかつたのです。又自分がリーダーになつて威張つて行かう、さういふ豪傑主義でもなかつたのです。決して資本主義や個人主義的の強調者ではないのでありまして、合本なので、本を合せる、力を共にする、大勢の資本・努力を合せるのですから、その後に起つた理論的の思想を以て立たれたのぢやない。集合体の力によつて集合体の利を享け、これを其各個に分けて来るのが本当だと云ふのでした。ですから初まりの所を言ひますれば、寧ろ青渕先生などの考へたのは資本主義ぢやなくて、社会主義のやうなものと同じところがあると言へる位です。

銅像[編集]

渋沢栄一を知るための参考文献[編集]

基本的資料[編集]

  • 『渋沢栄一伝記資料』全58巻(渋沢栄一伝記資料刊行会・昭和30年~40年)・別巻10(渋沢青淵記念財団竜門社・昭和41年~46年)
  • 『渋沢栄一事業別年譜』(国書刊行会・昭和60年)
  • 『論語講義(一)~(七)』 渋沢栄一著(講談社学術文庫・昭和52年)
  • 『雨夜譚』(あまよがたり) 渋沢栄一述(岩波文庫・昭和59年)
  • 『雨夜譚 余聞』(あまよがたり よぶん) 渋沢栄一述(小学館 地球人ライブラリー・平成10年)
  • 『論語と算盤』 渋沢栄一著(角川ソフィア文庫・平成20年)
  • 『渋沢百訓 論語・人生・経営』 渋沢栄一著(角川ソフィア文庫・平成22年)

伝記関係[編集]

  • 『埼玉の先人・渋沢栄一』 韮塚一三郎・金子吉衛著(さきたま出版会・昭和58年)
  • 『渋沢栄一伝』 幸田露伴著(岩波書店・昭和61年)
  • 『渋沢栄一』 土屋喬雄著(吉川弘文館・平成元年)
  • 『渋沢栄一 近代の創造』 山本七平著(祥伝社・2009)
  • 『渋沢家三代』 佐野眞一著(文春新書・平成10年)
  • 『青年・渋沢栄一の欧州体験』 泉三郎著(祥伝社新書・2011年)
  • 『渋沢栄一 Ⅰ・算盤篇/Ⅱ・論語篇』 鹿島茂著(文芸春秋・2011年)
  • 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』 島田昌和(岩波新書・2011年)
  • 『現代語訳 渋沢栄一自伝』 守屋淳編訳(平凡社新書・2012年)
  • 『渋沢栄一 日本史リブレット人85』 井上潤著(山川出版社・2012年)

小説[編集]

  • 『雄気堂々』 城山三郎著(新潮社・昭和47年)
  • 『激流 若き日の渋沢栄一』 大仏次郎著(徳間文庫・1989年)

郷土史関係[編集]

  • 『澁澤榮一』 山口 平八著(埼玉県立文化会館・昭和30年)
  • 『渋沢栄一』 山口 平八著(平凡社・昭和38年)
  • 『澁澤父子事蹟』 山口 律雄編著(澁澤父子遺徳顕彰会・昭和48年)
  • 『いしぶみ』 山口 平八著(博字堂・昭和51年)
  • 『尾高惇忠』 荻野勝正著(さきたま出版会・昭和59年)
  • 『日々に新たなり -渋沢栄一の生涯-』 下山二郎著(国書刊行会・昭和63年)
  • 『渋沢栄一碑文集』 山口律雄・清水惣之助著(博字堂・昭和63年)
  • 『渋沢栄一翁の実学に学ぶ』 鳥塚恵和男講述(博字堂・平成5年)
  • 『古典で読むふるさと』 吉橋 孝治著(博字堂・平成6年)
  • 郷土の先人 尾高惇忠』 荻野勝正著(博字堂・平成7年)
  • 岡部町人物誌』 山口律雄著(博字堂・平成7年)
  • 『深谷の地名』 柴崎伊勢三・安部利平著(深谷郷土文化保存会・平成7年)
  • 『郷土の先覚 渋沢仁山 -関係資料集-』 鳥塚惠和男・新井慎一著(博字堂・平成8年)
  • 『ふかや第9号』(深谷郷土文化保存会・平成8年)
  • 『ふかや第10号』(深谷市郷土文化会・平成10年)
  • 『埼玉人物事典』(埼玉県・平成10年)
  • 『郷土の大先人渋沢栄一翁を語る』渋沢武三著(東洋印刷・平成10年)
  • 『真夏の夜の郷土史講座 -郷土の偉人渋沢栄一翁-』(深谷市郷土文化会・平成11年)
  • 『渋沢栄一を生んだ「東の家」の物語』 新井慎一著(博字堂・平成14年)
  • 『渋沢栄一とふるさとの人々』 鳥塚惠和男著(博字堂・平成16年)
  • 『渋沢栄一 -父と子の物語-』 新井慎一著(博字堂・平成16年)
  • 『渋沢栄一のめざしたもの』 新井慎一著(博字堂・平成19年)
  • もっと知りたい渋沢栄一 Q&A』 渋沢栄一に学ぶ市民塾編・平成22年
  • 『渋沢喜作書簡集』新井慎一・小林敏男・増田泰之・吉橋孝治共編(深谷市郷土文化会・平成20年)
  • 渋沢栄一とその周辺』 新井慎一著(博字堂・平成24年)

(以上の書誌データは新井慎一作成)

ウォーキングガイド[編集]

  • 『渋沢栄一とウォーキング』 塩原哲司著・写真(塩ブックス・平成22年) 

関連項目[編集]

脚注・出典[編集]

年譜は、主に『渋沢栄一とその周辺』(新井慎一、博字堂、2012)、『尾高惇忠』(荻野勝正、博字堂、1995)による。 <references/>

外部リンク[編集]