藤田雄山貞資

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藤田雄山貞資(ふじたゆうざんさだすけ、享保19年(1734)-文化4年(1807))は、江戸時代の和算家(数学者)。本田村(現在の深谷市本田)に生まれ、のちに日本を代表する和算家となり、関流和算の教科書『精要算法』(せいようさんぽう)を著した。

生涯[編集]

藤田雄山貞資は、享保19年9月16日、本田村(現在の深谷市本田)に本田家の3男として生まれる。幼いころから数学が得意で、測量など父親の仕事をよく伝う。
23歳で大和新庄藩(現奈良県葛城市新庄)の藤田家へ養子に入ると、当時和算の主流であった関流の3代目後継者山路主住(やまとぬしずみ)に弟子入りする。次第に頭角を現し、山路の手伝いとして幕府の天文方(てんもんかた)において改暦の作業に従事。33歳で山路から関流免許(印可状)を授かり、4代目後継者として認められるが、目の病にかかり34歳で天文方<ref>天文方…天体・暦・測量・地誌などに関する仕事をする役所</ref>の仕事を辞める。
この後、筑後久留米藩(現福岡県久留米市)の藩主有馬候に江戸詰めの算学師範として召し抱えられると、雄山の元にはたくさんの弟子が集まるようになり、以降、雄山は多くの後進を育てながら、自らも常に学び続け日本を代表する数学者となった。
雄山は多くの後進を育てた教育者でもあった。その門弟は数百人といわれている。 中でも上州板鼻(現在の群馬県安中市板鼻)の小野栄重は、伊能忠敬を手伝って日本地図の作製に貢献した。


『精要算法』[編集]

雄山の名を全国に広めたのは、48歳の時に発行した書物『精要算法』である。この本は、関流和算のさまざまな問題を分かりやすく解説したもので、多くの和算家に教科書として用いられた。多数の流派が存在する和算の世界で、関流の雄山と最上流(さいじょうりゅう)の会田安明の間では20年にわたり算学論争が続いた。これにより両者の和算水準が向上したと同時に、和算への興味と関心を広く人々に与えるものともなった。


東の藤田、西の会田[編集]

庶民の間では当時人気を博していた相撲にならい和算家の番付表が作られていた。東西の最高位である大関には、東に雄山、西に会田安明が位置していた。


略年譜[編集]

享保19年(1734)
9月16日、 本田村に本田家の3男として生れる。
宝暦6年(1756)
大和新庄藩の藤田家へ養子に入る。
宝暦7年(1757)
関流山路主任の門下生となる。
宝暦12年(1762)
幕府天文方手伝いとなる。
明和3年(1767)
山路主任から関流免許(印可状)を授かる。
明和4年(1767)
眼病のため幕府天文方を辞める。
明和5年(1768)
筑後久留米藩有馬候に算学藩士として召し抱えられる。
天明元年(1781)
『精要算法』を刊行。和算の教科書として多く和算家に用いられる。
天明5年(1785)
会田安明との20年に及ぶ算額論争が始まる。
文化4年(1807)
8月6日、74歳で没す。江戸四谷の西応寺に眠る。


記念碑[編集]

川本公民館に藤田雄山貞資先生顕彰碑(2012年建立)がある。

藤田雄山貞資先生顕彰碑
藤田雄山貞資先生顕彰碑の碑文


出典[編集]

「広報ふかや」2012年6月号

脚注[編集]

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