血洗島

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血洗島(ちあらいじま)は、渋沢栄一の生家があるところとして有名である。

位置

深谷市血洗島

地名の由来

地名の由来については定説はなく、以下の諸説がある<ref>『深谷の地名』(柴崎伊勢三・安部利平著、深谷郷土文化保存会、平成7年)</ref>。

  1. 血洗島の生まれである渋沢栄一が『龍門雑誌』に以下のような言い伝えを書いている。それによれば「恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説や口碑とが伝わっている。しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという」。
  2. 八幡太郎義家の家臣が、戦いで切り落とされた片腕を洗ったところからその名がついた。
  3. 「血洗」(けっせん)は当て字で、アイヌ語の「ケシ、ケセン、ケッセン」(岸、末端、しものはずれ、尻などの意)など、東北・北海道に気仙(ケセン)沼・厚岸(あつケシ)などと共通する同意語ではないか。
  4. その地が利根川の洪水による氾濫原であることから、もとは「地洗」(ちあらい)、「地荒」(ちあら)だったのが、「地」の字がいつの間にか「血」となった。

歴史

江戸期は岡部藩安部摂津守の知行地。
明治23年に八基(やつもと)村になる。
昭和29年に豊里村になる。
昭和48年に深谷市と合併した。

渋沢栄一のふるさと深谷市血洗島

江戸時代、深谷は中山道の宿場町として栄えた。天保年間(1830~1844)のことであるが、旅籠の総数は大小合わせて80軒を越えたといわれている。幕府直轄の天領であった。

渋沢栄一生誕の地である当時の血洗島村は、この深谷宿から北へ約1里半(6km)のところにあり、さらに村の北1.6kmほどの所に利根川が流れ、上州(現在の群馬県)の地に接している。この利根川には血洗島近接の地に中瀬河岸(現在の深谷市中瀬)があり、ここは江戸方面(現在の東京)へと至る、また江戸方面より来る、人や物資の中継基地として、大いに栄えた。

このように血洗島村は、人や物資が交通・流通する上でたいへん重要な意味を持つ中山道と利根川という2大幹線に近く、渋沢栄一の育つ頃には、当時最新の情報や文化にふれることも容易な土地柄であったことと思われる。この血洗島村は、近くの村々と合わせて、岡部藩安部氏の支配する土地であった。安部氏はもと今川氏の家臣であったが、今川氏の没落後、徳川家康に臣従し、天正18年(1590)、家康の関東入国に伴い、岡部の地に領地を与えられ、三河半原(現在の愛知県新城市)の領地その他と合わせて1万石を越え、小さいながらも大名に列せられ。旧深谷市街に隣接する岡部町(現在は合併して深谷市岡部)に陣屋があった。

血洗島をはじめ、利根川に隣接する地域は、太古より利根川の氾濫原をなしており、たいへん肥沃な土壌であり、その土には細かな砂礫が混じっているため、米作には向かないが、畑作には最適の地であり、現在も「深谷ネギ」をはじめとする野菜の一大産地として、全国的にも有名なところである。

特に、栄一の育った頃には養蚕と藍玉の生産が盛んで、栄一の生まれた家は、血洗島村の渋沢一族の間でも「中の家(なかんち)」と呼ばれ、本家筋とされているが、この「中の家」における藍玉の年商は1万両を越えたとされるように、栄一はたいへん裕福な農家に育った。また、この藍玉の生産・販売は、一時期に莫大な資金とこれに応じた人手を要するとともに、資金の回収に時間がかかり、新規の参入が非常に難しい業態であり、その分利益も大きなものがあった。

血洗島という地名の由来には諸説があり、いずれも定説となるまでにはいたっていないが、太古より繰り返されて来た利根川の氾濫により、土地が常に洗われる意からチアライジマとなったのだというもの、また、土地が荒れる意からチアレジマ変じてチアライジマとなったのだとするもの、この両説が代表的なものである。渋沢一族がこの血洗島に土着したのは天正年間(1573~1592)のこととされるが、荒れ地を耕してのそれであったとすれば、チアレジマ変じてチアライジマとなったという説にも、大いにうなずけるものがある。 栄一の雅号「青淵」は、当時生家の裏で清水川の伏流水が湧き上がって大きな池をなしており、これにちなんで名乗ったものである。(文:新井慎一)

『新編武蔵風土記稿』の記述

〇血洗島村 血洗島村も郷庄及江戸への行程等前村に同じ、〇大寄郷、藤田庄に属し、江戸より二十里、明暦二年検地等の事前村と同じの意 当村の里正今より十四代の先祖、和泉と云もの、天正の頃開墾せしと云、此頃は家数纔五軒なりしが、今は五十に及べり、東南は上下手斗の二村、西は南北阿賀野の二村にて、北は横瀬村なり、東西四丁余、南北十九町、正保の頃は皆畑なりしが、今は水田も少しく交れり、御入国の後蘆田右衛門康直及安部弥市郎信勝に賜はれり、其後蘆田の分は上りて、一円に安部氏に賜ひ、今子孫攝津守領す、検地は天正十八年改ありと云<ref>『新編武蔵風土記稿』(文化7年起稿、文政11年完成)</ref>


脚注

<references/>